一時気の狂《ちが》った少女のようで、母親の鼻の穴へ指を突込み、顔を掴《つか》み、急に泣き出したりなぞしていた。
「房ちゃん、見えるかい」と私が言って見た。
「ああ――」とお房は返事をしたが、やがて急に力を入れて、幼い頭脳《あたま》の内部《なか》が破壊し尽されるまでは休《や》めないかのように叫び出した。
「母さん――母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」
 この調子が可笑《おか》しくもあったので、看護のもの一同が笑うと、お房は自分でも可笑しく成ったと見えて、めずらしく笑った。それから、ヒョットコの真似なぞをして見せた。
 寝台の側に附添っていた人々は、喜び、笑った。お房も一緒に笑ううちに、逆上《のぼ》せて来たと見えて、母親の鼻といわず、口といわず、目といわず、指を突込もうとした。枕も掻※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、153−13]《かきむし》った。人々は皆な可懼《おそろ》しく思った。終《しまい》には、お房は大声に泣出した。
 こういう中へ、牛込の法学士から私の子供が入院したことを聞いたと言って、訪ねて来てくれた画家があった。君は浮世絵の方から出た人であった。君の女の児は幼稚園へ通う途中で、あやまって電車のために引き殺されたということで、それを私に泣いて話した。この可傷《いたま》しい子供の失い方をした画家は、絶えず涙で、お房の苦しむ方を見ていた。
 今はただ幼いものの死を待つばかりである。こう私は二三の友達の許《もと》へ葉書を書いた。翌日はお房の呼ぶ声も弱って来て、「かあちゃん、か――」とか、「馬鹿ちゃん、馬」とか、きれぎれに僅《わず》かに聞えるように成った。家の方も案じられるので、私は皆川医学士に子供のことを頼んで置いて、それからちょっと大久保へ帰った。
 放擲《うっちゃらか》して置いた家の中はシンカンとしていた。裏に住む女教師なども病院の方の様子を聞きに来た。寂しそうに留守をしていた姪は、留守中に訪ねてくれた人達だの、種々な郊外の出来事だのを話して、ついでに、黒が植木屋の庭の裏手にある室《むろ》の中で四|匹《ひき》ばかりの子供を産んだことを言出した。幾度《いくたび》饑《う》え、幾度殺されそうにしたか解らないこの死《し》に損《そこな》いの畜生にも、人が来て頭を撫《な》でて、加《おまけ》に、食物《くいもの》までも宛行《あてが》われる
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