なんだってそんな大きな下駄《かっこ》を穿《は》くんですねえ」
 と言って、家内は腰を延ばした。そして苦しそうな息づかいをした。高く前掛を〆《し》めてはいたが、最早醜く成りかけた身体の形は隠されずにある。
 お房の泣く声が聞えた。家内は取縋《とりすが》る妹の方をそこへ押除《おしの》けるようにした。「あ、房ちゃんが復た溝《どぶ》へ陥落《おっこ》ちた」と言って顔を顰《しか》めていると、お房は近所の娘に連れられながら、着物を泥だらけにして泣いてやって来た。
「どうしてそう毎日々々|衣服《おべべ》を汚すんだろう」
 と家内が言ったので、お房はもう身を竦《すく》めるようにして、無理やりに縁側の方へ連れて行かれた。
「母さん、御免……」
 こうお房は拝むように言った。家内は又、この娘を懲《こ》らさないうちは置かなかった。
「房《ふう》ちゃん、どうなさいました」
 と、お房の泣声を聞きつけて、そこへ井戸を隔てて住む「叔母さん」が提げにやって来た。この人はここから麹町《こうじまち》の小学校へ通う女教師である。最早《もう》中学へ行くほどの子息《むすこ》がある。
「衣服《おべべ》を泥になんか成すっちゃいけませんよ。これから母さんの言うことをよく聞くんですよ」
 と裏の「叔母さん」は沈着《おちつ》いた、深切な調子で、生徒に物を言い含めるように言った。お房は洗濯した単衣《ひとえもの》に着更えさせて貰って、やがて復たぷいと駈出《かけだ》して行った。
「母さん、何か……母さん、何か……」
 とお菊はネダリ始めた。何か貰わないうちは母の側を離れなかった。
「泣かなくても、進《あ》げますよ」と家内は叱るように言った。「お煎餅《せんべ》ですよ」
「お煎餅、嫌《いや》――アンコが好い」
「アンコなんか不可《いけ》ません。あんまり食べたがるもんだから、それで虫が出るんですよ――嫌ならお止しなさい」
 と母に言われて、お菊は不承々々に煎餅を分けて貰った。
 その晩は早く夕飯を済ました。薮蚊《やぶか》の群が侘《わび》しい音をさせて襲って来る頃で、縁側には蚊遣《かやり》を燻《いぶ》らせた。蛙《かわず》の鳴く声も聞えた。家内は、遊び疲れた子供の為に、蚊帳を釣ろうとしていたが、
「父さん、どうしたんでしょう……まあ、おかしなことが有る……」
 こう言いながら、ボンヤリ釣洋燈《つりランプ》の側に立った。
「私は物が見
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