じゃったのよ」
とお菊は訳も解らずに母の口真似をして、棺の周囲《まわり》を笑いながら踊って歩いた。
「馬鹿だねえ……御覧なさいな、繁ちゃんは最早ノノサンに成ったんじゃ有りませんか……」
と復た母に言われて、お房は不思議そうに、泣|腫《は》らしている母の顔を覗き込んだ。丁度そこへ家内の妹も学校の方からやって来たが、この有様を見ると、直に泣出した。終《しまい》にはお房も悲しく成ったと見えて、母や叔母と一緒に成って泣いた。
蝋燭《ろうそく》の火が赤く点《とぼ》った。
「兎の巾着でも入れてやりナ」
と私が言ったので、家内や妹は棺の周囲へ集って、毛糸の巾着の外に、帽子、玩具《おもちゃ》、それから五月の花のたぐいで、死んだ子供の骸《から》を飾った。
墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向《むかい》の農家の人などは、提灯《ちょうちん》を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。
こうして私の家には小さな新しい位牌《いはい》が一つ出来た。そのかわり、お繁の死は、私達の生活の重荷をいくらか軽くさせた形であった。まだお房も居るし、お菊も居る――二人もあれば、子供は沢山だ、と私は思った。
どうかすると私は串戯《じょうだん》半分に家のものに向って、
「お繁が死んでくれて、大《おおい》に難有《ありがた》かった」
こんなことを言うこともあった。私は唯自分の仕事を完成することにのみ心を砕いていた。
「子供なぞはどうでも可い」
多忙《いそが》しい時には、こんな気も起った。何を犠牲にしても、私は行けるところまで行って見ようと考えたのである。
郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息《いき》を吐《つ》きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦《たいら》な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁《にわづくり》のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った。
「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採
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