かった。彼の上京は、叔父が長い仕事を持って山を下りたよりも早かった。一頃は本所辺に小さな家を借りて、細君の豊世と一緒に仮の世帯《しょたい》を持ったが、間もなくそこも畳んで了《しま》い、細君は郷里《くに》へ帰し、それから単独《ひとり》に成って事業《しごと》の手蔓《てづる》を探した。彼の気質は普通の平坦《たいら》な道を歩かせなかった。乏しい旅費を懐《ふところ》にしながら、彼は遠く北海道から樺太《からふと》まで渡り、空《むな》しくコルサコフを引揚げて来て、青森の旅舎《やどや》で酷《ひど》く煩《わずら》ったこともあった。もとより資本あっての商法では無い。磐城炭《いわきたん》の売込を計劃したことも有ったし、南清《なんしん》地方へ出掛けようとして、会話の稽古までしてみたことも有った。未だ彼はこれという事業《しごと》に取付かなかった。唯《ただ》、焦心《あせ》った。
そればかりでは無い。叔父という叔父は、いずれも東京へ集って来ている。長いこと家に居なかった実叔父は壮健《たっしゃ》で帰って来ている。森彦叔父は山林事件の始末をつけて、更に別方面へ動こうとしている。三吉叔父も、漸《ようや》く山から持って来
前へ
次へ
全324ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング