うな空気が軒へ通って来た。夕方から三吉は姪を集めて、遠く生家《さと》の方に居るお雪の噂《うわさ》を始めた。表の方の農家でも往来へ涼台《すずみだい》を持出して、夏の夜風を楽しむらしかった。ジャン拳《けん》で負けて氷を買いに行ったお延は、やがて戻って来た。お俊はコップだの、砂糖の壺《つぼ》だのを運んだ。
「皆なに御馳走《ごちそう》するかナ」
と三吉は、赤い葡萄酒《ぶどうしゅ》の残りを捜出《さがしだ》して、それを砕いた氷にそそいだ。
お俊の娘らしい話は、手紙のことに移って行った。切手を故意に倒《さかさ》まに貼《は》るのは敵意をあらわすとか、すこし横に貼るのは恋を意味するとか、そんなことを言出す。敵意のあるものなら、手紙を遣取《やりとり》するのも少し変ではないか、こう叔父が混返《まぜかえ》したのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「叔父さんなんか、そういうことはよく知っていらッしゃるくせに」
と軽く笑って、それからお俊は彼女が学校生活を叔父に語り始めた。三吉は時々、手にしたコップを夜の燈火《あかり》に透かして見ながら、「そうかナア」という眼付をして、耳を傾けていた。
「私は涅槃《ねはん》という言葉が大好よ」とお俊は冷そうに氷を噛《か》んで言った。
「あら、いやだ」とお延はコップの中を掻廻《かきまわ》して、「それじゃ、お俊姉さまのことを、これから涅槃と……」
「涅槃ッて、何だか音《おん》からして好いわ」
こんなことからお俊の話は解けて、よく学校の裏手にある墓地へ遊びに行くことを言出した。そこの古い石に腰掛け、落葉の焼けるにおいを嗅《か》ぎながら、読書するのが彼女の楽みであると言出した。
「学校の先生が――小泉さん、貴方《あなた》は誰にも悪《にく》まれないが、そのかわり人に愛される性質《たち》で反《かえ》って不可《いけない》――貴方は余程シッカリしていないといけません、その為に苦労することが有るからッて……」
こう言いかけて、お俊は癖のように着物の襟《えり》を掻合せて、
「叔父さんやなんかのことは、自分の身に近い人ですから解りませんがネ……私の知ってる人で、一人も心から敬服するという人は無いのよ。あの人はエライ人だとか、何だとか言われる人でも、私は直にその人の裏面《うら》を見ちゃってよ――妙に、私には解るの――解るように成って来るの」
お延は叔父と従姉妹の顔を見比べた。
「私は二十五に成ったら、叔父さんに自分の通過《とおりこ》して来たことを話しましょう。よく小説にいろいろなことが書いてあるけれど、自分の一生を考えると、あんなことは何でも無いわ。私の遭遇《であ》って来たことは、小説よりも、もっともっと種々《いろいろ》なことが有る」
「そんなら、今ここで承りましょう」と三吉は半分|串談《じょうだん》のように。
「いいえ」
「二十五に成って話すも、今話すも、同じことじゃないか」
「もっと心が動かないように成ったら、その時は話します……今はまだ、心が動いてて駄目よ」
しばらくお俊の話は途切れた。暗い、静かな往来の方では、農家の人達が団扇《うちわ》をバタバタ言わせる音がした。
「しかし、叔父さんが私を御覧なすッたら、さぞ馬鹿なことを言ってると御思いなさるでしょうねえ」
「どういたして」
「必《きっ》とそうよ」
「しかし」と三吉は姪の方を眺めながら、「お前がそんなオシャベリをする人だとは、今まで思わなかった――今夜、初めて知った」
「私はオシャベリよ――ねえ、延ちゃん」と言って、お俊はすこし羞《は》じらった顔を袖で掩《おお》うた。
両国《りょうごく》の花火のあるという前の日は、森彦からも葉書が来て、お俊やお延は川開《かわびらき》に行くことを楽みに暮した。
翌日の新聞は、隅田川《すみだがわ》の満潮と、川開の延期とを伝えた。水嵩《みずかさ》が増して危いという記事は、折角《せっかく》翹望《まちもう》けた娘達をガッカリさせた。そうでなくても、朝から冷《すず》しい夏の雨が降って、出掛けられそうな空模様には見えなかった。
「延は?」と三吉がお俊に聞いた。
「裏の叔母さんのとこでしょう」
女教師の通う小学校も休に成ってからは、「叔母さん、叔母さん」と言って、毎日のようにお延は遊びに行った。
庭の草木も濡れて復活《いきかえ》った。毎日々々の暑《あつさ》で、柔軟《かよわ》い鳳仙花《ほうせんか》なぞは竹の垣のもとに長い葉を垂れて、紅く咲いた花も死んだように成っていたが、これも雨が来て力を得た。三吉は縁側に出て、ションボリと立っていた。
「叔父さん――何故《なぜ》私が墓場が好きですか、それを御話しましょうか」
こうお俊が言出した。三吉は部屋へ戻って、心地《こころもち》の好い雨を眺めながら、姪の話を聞いた。
お俊の言おうとすることは、彼女の
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