のよ』と言いながら、棺の周囲《まわり》を踊って歩きましたよ。そして、死んだ子供の側へ行って、噴飯《ふきだ》すんですもの」
「まあ」
「しかし、二人とも達者でいる時分には、よく繁ちゃんの御墓へ連れて行って、桑の実を摘《と》って遣《や》りましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと――繁ちゃん桑の実|頂戴《ちょうだい》ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あの御墓の後方《うしろ》にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘って下さいッて言っちゃあ……」
「オイ、何か他の話にしようじゃないか」
と三吉が遮《さえぎ》った。子供の話が出ると、必《きっ》と終《しまい》には三吉がこう言出した。
「種ちゃん」お延はアヤすように呼んだ。
「この子は又、どうしてこんなに弱いんでしょう」とお雪は種夫の顔を熟視《みまも》りながら言った。
蹂躙《ふみにじ》られるような目付をして、三吉も種夫の方を見た。その時、夫婦は顔を見合せた。「ひょッとかすると、この児も?」この無言の恐怖が互の胸に伝わった。三人の娘達を見た目で弱い種夫を眺めると、十分な発育さえも気遣《きづか》われた。
急に日が強く映《あた》って来た。すこし湿った庭土は、熱い、黄ばんだ色を帯びた。木犀《もくせい》の葉影もハッキリと地にあった。三吉は帽子を手にして、そこいらを散歩して来ると言って、出て行った。
「そう言えば、繁ちゃんの肉体《からだ》は最早腐って了ったんでしょうねえ」
とお雪は姪に言って、歎息《たんそく》した。彼女は乳呑児を抱きながら縁側のところへ出て眺めた。日光は輝いたり、薄れたりするような日であった。お延は庭へ下りた。菫《すみれ》の唱歌を歌い出した。それはお房やお菊が未だピンピンしている時分に、二人して家の周囲《まわり》をよく歌って歩いたものである。お雪は、死んだ娘の声を探すような眼付して、一緒に低い声で歌って見た。勝手口の方でも調子を合せる声が起った。
夕方に三吉はボンヤリ帰って来た。
「何だか俺は気でも狂《ちが》いそうに成って来た。一寸|磯辺《いそべ》まで行って来る」
こう家のものに話した。その晩、急に彼は旅行を思い立った。そして、そこそこに仕度を始めた。山にある友人の牧野からは休みに来い来いと言って寄《よこ》すが、その時は唯《ただ》一人で、世間を忘れるようなところへ行きたかった。翌朝《よくあさ》早く、彼は磯辺の温泉宿を指して発《た》って行った。
「あれ、叔父さんは最早《もう》帰って御出《おいで》たそうな」
とお延は入口の庭に立って言った。
お雪が生家《さと》の方で老祖母《おばあさん》の死去したという報知《しらせ》は、旅にある三吉を驚かした。二三日しか彼は磯辺に逗留《とうりゅう》しなかった。電報を受取ると直ぐ急いで家の方へ引返して来た。
「種ちゃん、父さんの御帰りだよ」とお雪も乳呑児を抱きながら、夫を迎えた。
「よく、こんなに早く帰られましたネ、皆な貴方のことを心配しましたよ」
「道理で、森彦さんからも見舞の電報を寄した。どうも変だと思った――俺は又、お前の方を案じていた」
ホッと溜息《ためいき》を吐《つ》いて三吉は老祖母の話に移った。
この老祖母の死は、今更のように名倉《なくら》の大きな家族のことを思わせた。別に竈《かまど》を持った孫娘だけでも二人ある。まだ修業中の孫から、多勢の曾孫《ひいまご》を加えたら、余程の人数に成る。お雪ばかりは、その中でも、遠く嫁《かたづ》いて来た方であるが、この葬式は是非とも見送りたかった。三吉は又、種夫に下婢《おんな》を附けて一緒に遣るつもりで帰って来た。
「さあ、今度はお前が出掛ける番だ」と三吉が言った。「でも、俺の仕事が済んだ後で好かった……買う物があったら買ったら可《よ》かろう。何か土産《みやげ》も用意して行かんけりゃ成るまい」
「土産なんか要《い》りません。一々持って行った日にゃ大変です」
お雪は妹だの、姪だのを数えてみた。
久し振で生家《さと》へ帰る妻の為にと思って、三吉は名倉の娘達の許《もと》へ何か荷物に成らない物を見立てようとした。旅費を用意したり、買物したりして、夫が町から戻って来る頃は、妻は旅仕度に忙しかった。
あわただしい中にも、種々なことがお雪の胸の中を往来した。長い年月の間、夫と艱難《かんなん》を共にした後で、彼女は自分の生家を見に行く人である。今まで殆んど出なかった家を出、遠く夫を離れて、両親や姉妹《きょうだい》やそれから友達などと一緒に成りに行く人である。光る帆、動揺する波、鴎《かもめ》の鳴声……可懐《なつか》しいものは故郷の海ばかりでは無かった。曾《かつ》て、彼女が心を許した勉《つとむ》――その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
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