兄と三吉の二人を特に寝台の側へ呼んで、母や妻の聞いているところで、種々と後事を托した。おそらく彼亡き後には、彼が家の為に尽したことに就《つ》いて、同情を寄せる人もあるであろう、と話した。豊世には、長く家に居て、母や幸作を助けるように――何一つ幸福な思もさせなかったことを気の毒に思う、とも話した。どうかすると彼の調子は制《おさ》えることの出来ないほど激昂《げっこう》したものと成って行った。それが戯曲的にすら聞えた。両手で顔を押えながら聞いていた豊世は、夫の口唇《くちびる》を霑《うるお》してやった。
「正太さん、どんな心地《こころもち》がしてるものかネ」
三吉は甥《おい》の寝台の側へ寄って尋ねた。名古屋へ着いて三日目の午前の事である。
「私は今、何事《なんに》も思いません」と正太は両手を白い掛蒲団《かけぶとん》の上へ力なげに載せて、大きく成った眼で三吉の方を見た。「唯……どうかするとこう、脆《もろ》く行って了うようなものじゃないか……そんなような気はしています……」
幾干《いくばく》もない自己の生命を、正太は自覚するもののように見えた。その日は沈着《おちつ》いて、言うことも平常《いつも》と変らなかった。
乾燥した空気は病室の壁に掛けてある額の油絵まで明るく見せた。微《かす》かな心地の好い風も通って来た。玻璃窓の外には、遠く白い夏雲を望んだ。三吉は窓の方へ行って、静かな病院の庭を眺めて、復た甥の枕許へ来た。
「正太さん、君の一生を書いて見ようかネ――何だか書いて置きたいような気もするネ」
「何卒《どうぞ》、叔父さん、御書きなすって下さい――是非御書きなすって下さい――好かれ、悪《あ》しかれ――」
正太は微かな笑《えみ》を口元に浮べながら、力を入れて答えた。
こうして正太と二人ぎりで居ることは、病院に来ては得難い機会《おり》であった。豊世は濯《すす》ぎ物《もの》か何かに出て居なかった。幸作も見えなかった。その時、三吉は向島の言伝《ことづて》を齎《もたら》そうとして、電話で聞かせたことを話しかけた。お種が廊下の方から入って来た。
「姉さん、一寸|彼方《あっち》へ行ってて下さい。すこし私は正太さんに話したいことが有る」
と三吉に言われて、姉は笑いながら出て行った。
「しばらく私の方へは便りが有りません……」と正太は向島親子が病んでいることを叔父から聞いた後で、言った。「この春あたりまでは文通もしましたが、それからはサッパリ手紙も来なく成りました……」
「駒形にあった額が三枚僕の家へ来てる。いずれ僕が東京へ帰ったら、あの中をどれか一枚、君の記念として送りましょう」
「何卒《どうぞ》、宜しく……」
正太は意外な音信《おとずれ》を聞いたという顔付で話した。
何気なく三吉は廊下の方へ出て見た。そこで豊世と幸作とに逢った。三吉は姉の様子が好さそうなのを悦《よろこ》んで、それを二人に話した。「母親さんも気を張って被入《いら》っしゃるからでしょうよ。私の方が反《かえ》って励まされる位です」と豊世は言った。「どうして、心《しん》はあれで弱っているんです」と彼女は附添えた。
幸作に伴われて、三吉は二階の昇降口《のぼりぐち》の人の居ないところへも行った。
「満洲の父親《おとっ》さんの方へは知らせたものでしょうか……」
「さあねえ……もし万一のことでも有ったら、その時は知らせるサ」
「私も、まあ、それに賛成だ……」
二人は欄《てすり》に倚《よ》りながらこんな立話をした。その時幸作は、豊世の一身に就いて、行末の方針に苦むということを話した。正太の看護はしても、再び橋本の家へ帰る心は、豊世には無いらしいとのことで有った。
三吉も、そう長く名古屋に逗留《とうりゅう》することは出来なかった。午後まで、皆なと一緒に正太の側に居た。甥の病勢もまだ旦夕《たんせき》に迫ったという程では無いらしいので、看護を人々に頼んで置いて、東京の方へ帰ることにした。
別れる時が来た。つと三吉は正太の枕許へ行った。
「正太さん。僕はこれで失敬します」
と言いながら、熱い汗ばんだ手を差出して、握手を求めた。
長いこと叔父甥は手を握り合っていた。やがて三吉が別れを告げて行こうとすると、正太は周章《あわ》てて叔父の解《ほど》いた手に取縋《とりすが》るようにして、
「僕も勇気を奮《ふる》い起して、是非もう一度叔父さんに御目に掛ります……」
と言いながら、堅く堅く叔父の手を握り〆《しめ》た。一度に込上げて来るような涙が正太の暗い顔を流れた。
「オオ、そうだとも……」
側に居たお種は吾児《わがこ》を励ますように言って、思わず両手で顔を掩《おお》うた。次の部屋には、幸作が坐って、頭を垂れていた。
長い廊下の突当りには消毒する場所があった。三吉はそこで自分の手をよく洗っ
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