焼けるだけの運を持って来たものです――皆な、そういう風に具わって来るものです」
 往時《むかし》は大きな漁業を営んで、氷の中にまで寝たというこの老人の豪健な気魄《きはく》と、絶念《あきらめ》の早さとは年を取っても失われなかった。女達の親しい笑声が起った。そこへ種夫と新吉が何か膳の上の物を狙《ねら》って来た。
「御行儀悪くしちゃ不可《いけない》よ」とお雪が子供を叱るように言った。
「種ちゃんか。新ちゃんも大きく成った。皆な好い児だネ」と老人は酔った眼で二人の孫の顔を眺めて、やがて酒の肴《さかな》を子供等の口へ入れてやった。
「コラ」と母は畳を叩《たた》く真似した。
 子供等は頬張《ほおば》りながら逃出して行った。下婢《おんな》が洋燈《ランプ》を運んで来た。最早酒も沢山だ、と老人が言った。食事を終る毎に、老人は膳に対して合掌した。
 その晩、残った仕事があると言って、三吉が二階へ上った頃は、雨の音がして来た。彼は下婢に吩咐《いいつ》けて階下《した》から残った洋酒を運ばせた。それを飲んで疲労《つかれ》を忘れようとした。
 お雪も幼い銀造を抱いて、一寸上って来た。
「どうだ――」と三吉はお雪に、「この酒は、欧羅巴《ヨーロッパ》の南で産《でき》る葡萄酒《ぶどうしゅ》だというが――非常に口あたりが好いぜ。女でも飲める。お前も一つ御相伴《おしょうばん》しないか」
「強いんじゃ有りませんか」とお雪は子供を膝《ひざ》に乗せて言った。
 雨戸の外では、蕭々《しとしと》降りそそぐ音が聞える。雨は霙《みぞれ》に変ったらしい、お雪は寒そうに震えて左の手で乳呑児《ちのみご》を抱き擁《かか》えながら、右の手に小さなコップを取上げた。酒は燈火《あかり》に映って、熟した果実《くだもの》よりも美しく見えた。
「オオ、強い」
 とお雪は無邪気に言ってみて、幾分か苦味のある酒を甘《うま》そうに口に含んだ。
「すこし頂いたら、もう私はこんなに紅く成っちゃった」
 と復たお雪が快活な調子で言って、熱《ほと》って来た頬を手で押えた。三吉は静かに妻を見た。


「相談したい。旅舎《やどや》の方へ来てくれ」こういう意味の葉書が森彦の許から来た。丁度名倉の老人は、学校の寄宿舎からお幾を呼寄せて、母と一緒に横浜見物をして帰って来た時で、長火鉢の側に煙管《きせる》を咬《くわ》えながら、しきりとその葉書を眺めた。
「とにかく、俺《おれ》は行って見て来る」
 こう三吉が妻に言って置いて、午後の三時頃に家を出た。
 森彦は旅舎の方で弟を待受けていた。二階には、相変らず熊の毛皮なぞを敷いて、窓に向いた方は書斎、火鉢《ひばち》の置いてあるところは応接間のように、一つの部屋が順序よく取片付けてあった。三吉が訪ねて行った時は、茶も入れるばかりに用意してあった。
「や」
 と森彦は弟を迎えた。
 何時《いつ》まで経っても兄弟は同じような気分で向い合った。兄の頭は余程|禿《は》げて来た。弟の鬢《びん》には白いやつが眼につくほど光った。未だそれでも、森彦はどこか子供のように三吉を思っていた。弟の前に菓子なぞを出して勧めて、
「今日お前を呼んだのは他でも無いが……実はエムの一件でネ」
 彼は切出した。
 森彦が言うには、今度という今度は話の持って行きどころに困った。日頃金主と頼む同志の友は病んでいる。一時融通の道が絶えた、ここを切開いて行かないことには多年の望を遂げることも叶《かな》わぬ……人は誰しも窮する時がある、それを思って一肌《ひとはだ》脱いでくれ、親類に迷惑を掛けるというは元より素志に背《そむ》くが、二百円ばかり欲《ほ》しい、是非頼む、弟に話した。
 三吉は困ったような顔をした。
「お前の収入が不定なことも、俺は知っている。しかしこの際どうにか成らんか。一時のことだ――人は大きく困らないで、小さく困るようなものだよ」と森彦は附添《つけた》して言った。
 しばらく三吉は考えていたが、やがて兄の勧める茶を飲んで、
「貴方のは人を助けて、自分で困ってる……今日《こんにち》までの遣方《やりかた》で行けば、こう成って来るのは自然の勢じゃ有りませんか。私はよくそう思うんですが、貴方にしろ、私にしろ、吾儕《われわれ》兄弟の一生……いろいろ人の知らない苦労をして……その骨折が何に成ったかというに、大抵身内のものの為に費されて了《しま》ったようなものです」
「今更そんなことを言っても仕方が無いぞ」
「いえ、私はそうじゃ無いと思います。稀《たま》にはこういうことも思って、心の持ち方を変えるが好いと思います」
「でも俺は差当り困る」
「いえ、差当ってのことで無く、根本的に――」
 森彦は弟の言うことを汲取《くみとり》かねるという風で、自分の部屋の内を見廻して、
「お前はそう言うが……俺は身内を助けるから、こうして他人
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