たかと思った。
六
橋本のお種が娘お仙を連れて上京するという報知《しらせ》が、正太の家の方へ来た。半歳《はんとし》も考えて旅に出る人のように、いよいよお種が故郷を発《た》つと言って寄《よこ》したのは、七月下旬に入ってからのことであった。
「漸《ようや》く、私の待っていたような日が来た。番頭の幸作も養子分に引直して、今では家のもの同様である。それに嫁まで取って宛行《あてが》ってある。私も、留守を預けて置いて、発《た》つことが出来る。お前達はどういう日を送っているか。お仙と二人で、そちらの噂《うわさ》をしない日は無い。お前達の住む東京を、お仙にも見せたい……叔父さんや叔母さん達にも逢《あ》わせたい……」という意味が、お種の手紙には長々と認《したた》めてあった。
この母からの便りを叔父達に知らせる積りで、先《ま》ず正太は塩瀬の店を指して出掛けようとした。
同じ河の傍でも、三吉や直樹の住むあたりから見ると、正太の家は厩橋《うまやばし》寄の方であった。その位置は駒形《こまがた》の町に添うて、小高い石垣の上にある。前には埋立地らしい往来がある。正太は家を出て、石段を下りた。朝日が、川の方から、家の前の石垣のところへ映《あた》っていた。それを眺《なが》めると、母や妹の旅立姿が彼の眼に浮んだ……日頃、女は家を守るものと定《き》めて、めったに屋敷の外へ出たことも無いお種――そういう習慣の人が、自分から思立って上京する気に成ったとは。正太は、あの深い屋根の下に※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、128−5]《もが》き悶《あが》いていた母の生涯を思わずにいられなかった。
塩瀬の店の車に乗って用達《ようたし》に馳廻《かけまわ》った後、正太は森彦叔父の旅舎《やどや》へ立寄り、それから引返して三吉叔父の家の前に車を停めた。丁度三吉は下座敷に居た。叔父の顔を見ると、正太は相場の思惑《おもわく》にすこし手違いを生じたことから、遣繰《やりくり》算段して母を迎える打開話《うちあけばなし》を始めた。
「へえ、お仙ちゃんを連れて? 姉さんも出て来るにはすこし早いナ」
と三吉は首を傾《かし》げていた。
「叔父さんもそうお思いでしょう」と正太は不安らしく、「どうも母親《おっか》さんは……阿爺《おやじ》に逢うのを目的にして出て来る様子です。いろいろ綜合して、私も考えて見ました。いずれこれは、何処《どこ》かの温泉場へ阿爺を呼寄せて、そこで会見しようという希望が、母親さんに有るらしいんです……どうもそうらしい……唯母親さんが出て来るものとは、どうしても私に思われません」
猶《なお》、的確《たしか》に言うために、正太は幸作から近く来た手紙の模様を叔父に話した。両親が、世間へは内証で、互に消息を通わせていることをも話した。
「母親さんからどういう手紙が行くものですか、それは解りませんが――」と正太はその話を継いで、「阿爺の手紙は、豊世が受取って、それから母親さんの方へ取次いでいます。時々、私も目を通します……」
「どんな風に、君の父親《おとっ》さんからは書いて寄すものかネ」と三吉が聞いた。
「あの年齢《とし》に成って、ああいう手紙を交換《とりかわ》してるものかと思うと、驚く……」と言って、正太は歎息して、「私達が書く手紙なぞとは、全然《まるっきり》違ったものなんです」
「どうでしょう、仮に、達雄さんが郷里《くに》へ帰ったとしたら――」
「そりゃ、叔父さん、阿爺が帰れば必ず用いられます――土地に人物は少いんですからネ。そこです。用いられれば、必ず復《ま》た同じことを繰返します。そりゃあ、もう目に見えています」
叔父に逢って談話《はなし》をして見ると、正太は頭脳《あたま》がハッキリして来た。父の家出――つづいて起った崩壊の光景――その種々《さまざま》の記憶が彼の胸に浮んで来た。三吉の方でも、甥《おい》の顔を眺めているうちに、何となく空恐しい心地《こころもち》に成った。
「こりゃ姉さんにも、すこし考えて貰わんけりゃ成らんネ」と三吉が言出した。
正太は力の籠《こも》った語気で、「ですから、私は母親さんを引留めようと思います……」
「大きにそうだ。今ここで、下手に会見なぞさせる場合では無いネ」
「もし母親さんが是方《こちら》へ参りましたら、叔父さんからもよく話して遣《や》って下さい」
お種が帰らない夫を待つことは、最早《もう》幾年に成る、とその時三吉も数えて見た。娘お仙を夫に逢わせて見たら、あるいは――一旦《いったん》失われた父らしい心胸《こころ》を復た元へ引戻すことも出来ようか――離散した親子、夫婦が集って、もう一度以前のような家を成したい――こう彼女が、一縷《いちる》の希望を夫に繋《つな》ぎながら、心|竊《ひそ》かに再会を期して上
前へ
次へ
全81ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング