たたか》い日は彼の眼に映った。その焦々《いらいら》と萌《も》え立つような光の中には、折角彼の始めた長い仕事が思わしく果取《はかど》らないというモドカシさが有った。稼《かせ》ぎに追われる世帯持の悲しさが有った。石垣に近く漕《こ》いで通る船は丁度彼の心のように動揺した。
三吉は土蔵の間にある細い小路《こうじ》の一つを元来た方へ引返して行った。彼はこういう小路だけを通り抜けて家まで戻ることが出来た。
お俊の母親が彼を待受けていた。
「姉さんが先刻《さっき》から被入《いらし》って、貴方を待ってますよ」
とお雪は長火鉢の傍で言った。煙草を吸付けて、それを嫂《あによめ》にすすめていた。
金の話はとかく親類を気まずくさせた。それに仕事の屈託で、髪も刈らず髭《ひげ》も剃《そ》らず、寝起のように憂鬱《ゆううつ》な三吉の顔を見ると、お倉は言おうと思うことを言い兼ねた。不幸な嫂の話は廻りくどかった。
「畢竟《つまり》、先方《さき》の家では宗さんの世話が出来ないと言うんですか」
こう言って三吉は遮《さえぎ》った。
「いえ、そういう訳じゃ無いんですよ」とお倉は寂しそうに微笑《ほほえ》みながら、「先方だってもあの通り遊んでいるもんですから、世話をしたいは山々なんです。なにしろ手の要《かか》る病人ですからねえ。それに物価はお高く成るばかりですし……」
復た復たお倉の話は横道の方へ外《そ》れそうなので、三吉の方では結末を急ごうとした。
「あれだけ有ったら、いきそうなものですがナア」
「そこですよ。もう二円ばかりも月々増して頂かなければ、御世話が出来かねるというんです」
「姉さん、どうです」と三吉は串談《じょうだん》のように、「貴方の方で宗さんを引取っては。私の方から毎月の分を進《あ》げるとしたら、その方が反《かえ》って経済じゃ有りませんか」
「真平《まっぴら》」とお倉は痩細《やせほそ》った身体を震わせた。「宗さんと一緒に住むのは、死んでも御免だ」
傍に聞いているお雪も微笑んだ。
病身な宗蔵は、実の家族から、「最早お目出度く成りそうなもの」と言われるほど厄介に思われながら、未だ生きていた。実の出発後は、三吉がこの病人の世話料を引受けて、月々お俊の家へ渡していた。どんなに三吉の方で頭脳《あたま》の具合の悪い時でも、要《い》るだけのものは要った。無慈悲な困窮は迫るように実の家族の足を運ばせた。
「折角、姉さんに来て頂いたんですけれど、今日は困りましたナア」
と三吉は額に手を宛てた。とにかく、増額を承諾した。金は次の日お俊に取りに来るようにと願った。
お俊が縁談も出た。
「御蔭様で、結納《ゆいのう》も交換《とりかわ》しました。これで、まあ私もすこし安心しました」
とお倉はお雪の方を見て言った。
この縁談が纏《まと》まるにつけても、お俊の親に成るものは森彦と三吉より他に無かった。森彦の発議で、二人はお俊の為に互に金を出し合って、一通りの結婚の準備《したく》をさせることにした。
「姉さん、まあ御話しなすって下さい。私は多忙《いそが》しい時ですから一寸失礼します」
こう言い置いて、三吉は二階の部屋へ上って行った。
仕事は碌《ろく》に手につかなかった。三吉が歩きに行って来た方から射し込む日は部屋の障子に映《あた》った。河岸の白壁のところに見て来た光は、自分の部屋の黄ばんだ壁にもあった。それを眺めていると、仕事、仕事と言って、彼がアクセクしていることは、唯身内の者の為に苦労しているに過ぎないかとも思わせた。
「一寸俺は用達《ようたし》に行って来る。着物を出してくんナ」
三吉は二階から下りて来て、身仕度《みじたく》を始めた。お倉は未だ話し込んでいた。お雪は白足袋《しろたび》の洗濯したのを幾足か取出して見て、
「一二度外へ行って来ると、もうそれは穿《は》かないんですから、幾足あったって堪《たま》りませんよ」
こんなことを言って笑いながら、中でも好さそうなのを択《よ》って夫に渡した。三吉は無造作に綴合《とじあわ》せた糸を切って、縮んだ足袋を無理に自分の足に填《は》めた。
「姉さん」と三吉はコハゼを掛けながら、「満洲の方から御便は有りますか」
「ええ、無事で働いておりますそうです――皆さんにも宜《よろ》しく申上げるようにッて先頃も手紙が参りました」
「ウマくやってくれると可《よ》う御座んすがナア」
「さあ、私もそう思っています」
「まだ家の方へ仕送りをするというところまでいきませんかネ」
「どうして……でも、まあ彼方《あちら》に親切な方が有りまして、よく見て下さるそうです」
頼りないお倉は「親切な」という言葉に力を入れ入れした。嫂を残して置いて、三吉は家を出た。
森彦は旅舎《やどや》の方に居た。丁度弟が訪ねて行った時は、電話口から二階の部屋へ戻
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