存じ候。御蔭さまにて法事も無事に相済み、その節は多勢の客などいたし申し候。それもこれも亡《な》き親の御蔭と存じまいらせ候。さて雪子あまり長く引留め申し、おん許様《もとさま》には何角《なにかと》御不自由のことと御察し申しあげ候。俊子様、延子様にも御苦労相掛け、まことに御気の毒とは存じ候えども、何分にも斯《こ》のお暑さ、それに種夫さん同道とありては帰りの旅も案じられ候につき、今すこしく冷《すず》しく相成り候まで当地に逗留《とうりゅう》いたさせたく、私より御願い申上げ※[#「※」は「まいらせそろ」の略記号、58−11]《まいらせそろ》。何卒《なにとぞ》々々|悪《あ》しからず御|思召《おぼしめし》下《くだ》されたく候――」
 三吉が名倉の母から手紙を受取った頃は、何となく空気も湿って秋めいて来た。お俊は叔父の側へ来て、余計に忸々《なれなれ》しく言葉を掛けた。
「叔父さん、今|何事《なんに》も用が有りませんが、肩が凝るなら、按摩《あんま》さんでもして進《あ》げましょうか」
「沢山」
「すこし白髪《しらが》を取って進げましょうネ」
「沢山」
「叔父さんは今日はどうかなすって?」
「どうもしない――叔父さんを関わずに置いておくれ――お前達はお前達の為《す》ることを為《し》ておくれ――」
 例《いつ》になく厭《いと》い避けるような調子で言って、叔父が机に対《むか》っていたので、お俊はまた何か機嫌を損《そこ》ねたかと思った。手持不沙汰《てもちぶさた》に、勝手の方へ引返して行った。
「お俊姉様――兄様が御出《おいで》たぞなし」
 とお延が呼んだ。
 直樹が来た。相変らず温厚で、勤勉なのは、この少壮《としわか》な会社員だ。シッカリとした老祖母《おばあさん》が附いているだけに、親譲りの夏羽織などを着て、一寸訪ねて来るにも服装《みなり》を崩《くず》さなかった。三吉のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいるこの青年は年寄にも子供にも好かれた。
 叔父は娘達を直樹と遊ばせようとしていた。こうして郊外に住む三吉は、自分で直樹の相手に成って、この弟のように思う青年の口から、下町の変遷を聞こうと思うばかりでは無かった。彼は二人の姪を直樹の傍へ呼んだ。黒い土蔵の反射、紺の暖簾《のれん》の香《におい》――そういうものの漂う町々の空気がいかに改まりつつあるか、高い甍《いらか》を並べた商家の繁昌《はんじょう》がい
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