厭《いや》よ」
 とお俊は、傍《そば》へ来た叔父の方を見て、自分の画いた絵葉書を両手で掩《おお》うた。
 学校の友達の噂から、復たお俊の話は引出されて行った。彼女は日頃崇拝する教師のことを叔父に話した。学校の先生に言わせると、この世には十の理想がある、それを合せると一つの大きな理想に成る――七つまでは彼女も考えたが、後の三つはどうしても未だ思い付かない、この夏休はそれで頭脳《あたま》を悩している。こんなことを言出した。お俊は附添《つけた》して、丁度《ちょうど》先生は「吾家《うち》の祖父《おじい》さん」のような人だと言った。先生と忠寛とは大分違うようだ、と三吉が相手に成ったのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「へえ、お前達はそんな夢を見てるのかい」
 と叔父は言おうとしたが、それを口には出さなかった。彼は幅の広い肩を動《ゆす》って、黙って自分の部屋の方へ行って了った。


 夜が来た。
 屋外《そと》は昼間のように明るい。燐《りん》のような光に誘われて、復た三吉は雑木林の方まで歩きに行きたく成った。お俊は叔父に連れられて行った。
 やがて、三吉達が散歩から戻って来た頃は、最早《もう》遅かった。表の農家では戸を閉めて了った。往来には、大きな犬が幾つも寝そべって頭を持上げたり、耳を立てたりしていた。中には月あかりの中を馳出《かけだ》して行くのもあった。三吉は姪を庇護《かば》うようにして、その側を盗むように通った。表の門から入って、金目垣《かなめがき》と窓との狭い間を庭の方へ抜けると、裏の女教師の家でも寝た。三吉の家の方へ向いた暗い窓は、眼のように閉じられていた。
 深い静かな晩だ。射し入る月の光は、縁側のところへ腰掛けた三吉の膝《ひざ》を照らした。お俊は、従姉妹の側へ寝に行ったが、眼が冴《さ》えて了って眠られないと言って、白い寝衣《ねまき》のままで復た叔父の側へ来た。
 急に犬の群が竹の垣を潜《くぐ》って、庭の中へ突進して来た。互に囓合《かみあ》ったり、尻尾《しっぽ》を振ったりして、植木の周囲《まわり》を馳《か》けずり廻って戯れた。ふと、往来の方で仲間の吠《ほ》える声が起った。それを聞いて、一匹の犬が馳出して行った。他の犬も後を追って、復た一緒に馳出して行った。互に鳴き合う声が夜更《よふ》けた空に聞えた。
「真実《ほんと》に――寝て了うのは可惜《おし》いような晩ねえ
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