そうかと言って、東京の家を畳むのも惜しいなんて言いますし――」
「ああ、意気地の無いものは駄目です」と正太は妻の方を見て、アテコスるような調子で歎息した。「どういうものか、豊世は、イヤに突掛って来るようなことばかり言う……こう俺に……しかし、無理も無いサ。この年に成って、碌に妻も養えないような人間だからナア」
 これを聞くと、豊世はもう何事《なんに》も言えなかった。
「まあ、森彦さんにも相談するサ」と云って、三吉は調子を変えて、「駒形の家に居る老婆《ばあ》さんネ、あの人も一生懸命で君の留守居をしてるよ。稀《たま》に僕が留守見舞に寄ると、これは旦那から預った植木だから、どうしてもこいつを枯らしちゃ成らんなんて……余程《よっぽど》主人思いだネ」
 正太も笑った。「叔父さん、ホラ、私がこの夏、岐阜《ぎふ》の方へ行って、鵜飼《うかい》の絵葉書を差上げましたろう。あの時、下すった御返事は、大事に取っといてあります」
「どんな返事を進《あ》げたっけネ」
「ホラ、私も長良川《ながらがわ》に随いて六七里下りましたと申上げました時に……あの暑い盛りに……こう夏草の香のする……」
「そうそう、木曾路を行くがごとしなんて、君から書いて寄《よこ》したッけネ――是方《こっち》の暑さが思いやられたッけ」
 正太は深い、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
 暮方に、三吉は東京へ向けて、夜汽車で発つことにした。叔父を見送ろうとして、正太は一緒にこの宿を出た。電車で名古屋の停車場まで乗った。時間はまだすこし早かった。正太は燈火《あかり》の点《つ》き始めた停車場の前をあちこちと静かに歩いて、ふと思いついたように叔父に向って、
「貴方の許《とこ》の叔母さんにしろ、吾家《うち》のやつにしろ、今が一番身体の盛んな時でしょう――」
 見ても圧迫を感ずるという調子に、彼は言った。
 間もなく三吉は新橋行の列車の中に入った。窓の外には、見送の切符を握った正太が立って、何もかも惨酷《むご》いほど身に浸《しみ》るという様子をしていた。車掌は飛んで来て相図の笛を鳴らした。正太は前の方へ曲《こご》み気味に、叔父をよく見ようとするような眼付をした。三吉も窓のところに、濡《ぬ》れ雫《しずく》に成った鶏のようにションボリ立っていた。
「叔母さんにも宜《よろ》しく……」
 と正太が言う頃は、汽車は動き出していた。
 停車場の灯
前へ 次へ
全162ページ中148ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング