た。やがて彼は袂《たもと》を探って、鉛の入った繭《まゆ》を取出した。仕事もなく、徒然《つれづれ》なまま、この繭を土台にして、慰みに子供の玩具《おもちゃ》を考案している。こんなことを叔父に語った。正太は紀文が遺《のこ》したという翫具《おもちゃ》の話なぞを引いて、さすがに風雅な人は面白いところが有る、とも言った。
 日の光は町々の屋根を掠《かす》めて、部屋の内へ射込んでいた。臥床《とこ》の上にツクネンとしている叔父の前で、正太はその鉛の入った繭を転がして見せた。


 夫は家を寺院と観念しても、妻はもとより尼では無かった。
 そればかりでは無い、若い時から落魄《らくはく》の苦痛までも嘗《な》めて来た三吉には、薬を飲ませ、物を食わせる人の情を思わずにいられなかった。彼が臥床《とこ》を離れる頃には、最早|還俗《げんぞく》して了った。彼の精神《こころ》は激しく動揺した。屈辱をも感じた。
 兄妹《きょうだい》の愛――そんな風に彼の思想《かんがえ》は変って行った。彼は自分の妹としてお雪のことを考えようと思った。
 十一月の空気のすこし暗い日のことであった。めずらしく三吉はお雪を連れて、町の方へ買物に出た。お雪は紺色のコートをちょっとしたヨソイキの着物の上に着て、手袋をはめながら夫に随《つ》いて行った。「まあ、父さんには無いことだ――御天気でも変りゃしないか」とお雪は眼で言わせた。
 ある町へ出た。途中で三吉は立ち留って、
「オイ、もうすこしシャンとしてお歩きよ……そんな可恥《はずか》しいような容子をして歩かないで。是方《こっち》がキマリが悪いや」
「だって、私には……」
 とお雪はすこし顔を紅めた。
 買物した後、三吉はお雪をある洋食屋の二階へ案内した。他に客も見えなかった。窓に近い食卓を選んで、三吉は椅子に腰掛けた。お雪も手袋を取って、よく働いた女らしい手を、白い食卓の布の上に置いた。
「ここですか、貴方の贔顧《ひいき》にしてる家は」
 とお雪は言って、花瓶《かびん》だの、鏡だの、古風な油絵の額だので飾ってある食堂の内を見廻した。彼女は又、玻璃窓《ガラスまど》の方へも立って行って、そこから見える町々の屋根などを眺めた。
 白い上衣《うわぎ》を着けたボオイが皿を運んで来た。三吉は匙《さじ》を取上げながら、妻の顔を眺めて、
「どうだネ。お前の旧《ふる》い友達で、誰か可羨《うらやま》
前へ 次へ
全162ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング