った。これでどうして遣《や》って行かれると祖父祖母が顔を見合せた時に、折よく大名が通りかかって、一夜に大勢の客をして、それから復た取り付いた。こんな話から始めて、街道一と唄《うた》われた美しい人が家に生れたこと、その女の面影をお倉もいくらか記憶していることなぞを語り聞かせた。
「へえ、叔母さんは真実《ほんと》に覚えが好い」と正太も昔|懐《なつか》しい眼付をした。
お倉の話は父忠寛の晩年に移って行った。狂死する前の忠寛は、眼に見えない敵の為に悩まされた。よく敵が責めて来ると言い言いした。それを焼払おうとして、ある日|寺院《てら》の障子に火を放った。親孝行と言われた実も、そこで拠《よんどころ》なく観念した。村の衆とも相談の上、父の前に御辞儀をして、「子が親を縛るということは無い筈ですが、御病気ですから許して下さい」と言って、後ろ手にくくし上げた。それから忠寛は木小屋に仮に造った座敷|牢《ろう》へ運ばれた。そこは裏の米倉の隣りで、大きな竹藪《たけやぶ》を後にして、前手《まえで》には池があった。日頃一村の父のように思われた忠寛のことで、先生の看護と言って、村の人々はかわるがわる徹夜で勤めに来た。附添に居た母の座敷は、別に畳を敷いて設けた。そこから飲食《のみくい》する物を運んだ。どうかすると、父は格子のところから母を呼んだ。「ちょっと是処へ来さっせ」と油断させて置いて、母の手のちぎれる程引いた。薄暗い座敷牢の中で、忠寛の仕事は空想の戦を紙の上に描くことで有った。さもなければ、何か書いてみることであった。忠寛は最後まで国風《こくふう》の歌に心を寄せていた。ある時、正成の故事に傚《なら》って、糞合戦《くそがっせん》を計画した。それを格子のところで実行した。母も、親戚も、村の人も散々な足利勢《あしかがぜい》であった……
皆な笑い出した。
「私は阿爺《おとっ》さんの亡くなる時分のことをよく知りません。御蔭で今夜は種々なことを知りました」と三吉は嫂に言った。「あれで、阿爺さんは、平素《ふだん》はどんな人でしたかネ」
「平素ですか。癇《かん》さえ起らなければ、それは優しい人でしたよ。宗さんが、貴方、子供の時分と来たら、ワヤク(いたずら)なもんで、よく阿爺さんにお灸《きゅう》をすえられました……阿爺さんはもう手がブルブル震えちまって、『これ、誰か来て、早く留めさっせれ』なんて……それほ
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