俊は涙なしにこの家の内の光景《ありさま》を見ることが出来なかった。
 長い悲惨な留守居の後で、漸く父と一緒に成れたのは、実に昨日のことのように娘の心に思われていた。復た別れの日が来た。父を逐《お》うものは叔父達だ。頼りの無い家のものの手から、父を奪うのも、叔父達だ。この考えは、お俊の小さな胸に制《おさ》え難い口惜《くや》しさを起させた。可厭《いとわ》しい親戚の前に頭を下げて、母子《おやこ》の生命を托さなければ成らないか、と思う心は、一家の零落を哀しむ心に混って、涙を流させた。
 叔父達に反抗する心が起った。彼女は余程自分でシッカリしなければ成らないと思った。弱い、年をとった母のことを考えると、泣いてばかりいる場合では無いとも思った。その晩は母と二人で遅くまで起きて、不幸な父の為に旅の衣服などを調《ととの》えた。
「母親《おっか》さん、すこし寝ましょう――どうせ眠られもしますまいけれど」
 と言って、お俊は父の側に寝た。
 紅い、寂しい百日紅《さるすべり》の花は、未だお俊の眼にあった。彼女は暗い部屋の内に居ても、一夏を叔父の傍で送ったあの郊外の家を見ることが出来た。こんなに早く父に別れるとしたら何故父の傍に居なかったろう、何故叔父を遠くから眺めて置かなかったろう。
「可厭《いや》だ――可厭だ――」
 こう寝床の中で繰返して、それから復た種々な他の考えに移って行った。父も碌に眠らなかった。何度も寝返を打った。
 未だ夜の明けない中に、実は寝床《とこ》を離れた。つづいてお倉やお俊が起きた。
「母親さん、鶏が鳴いてるわねえ」
 と娘は母に言いながら、寝衣《ねまき》を着更《きが》えたり、帯を〆《しめ》たりした。
 赤い釣洋燈《つりランプ》の光はションボリと家の内を照していた。台所の方では火が燃えた。やがてお倉は焚落《たきおと》しを十能に取って、長火鉢の方へ運んだ。そのうちにお延やお鶴も起きて来た。
 小泉の家では、先代から仏を祭らなかった。「御霊様《みたまさま》」と称《とな》えて、神棚だけ飾ってあった。そこへ実は拝みに行った。父忠寛は未だその榊《さかき》の蔭に居て、子の遠い旅立を送るかのようにも見える、実は柏手《かしわで》を打って、先祖の霊に別離《わかれ》を告げた。
 お倉やお俊は主人の膳《ぜん》を長火鉢の側に用意した。暗い涙は母子《おやこ》の頬《ほお》を伝いつつあった。実は
前へ 次へ
全162ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング