した。この老人は、直樹の叔父にあたる非常な神経家で、潔癖が嵩《こう》じて一種の痼疾《こしつ》のように成っていたが、平素《ふだん》癇《かん》の起らない時は口の利《き》きようなども至極丁寧にする人である。
老人は三吉に向って、よく直樹を東京から連れて来てくれたと言って、先《ま》ずその礼を述べた。
「三吉」と姉は引取って、「この沢田さんは、やはりお前さんの父親《おとっ》さんのように、国学や神道の御話が好きで……父親さんが生きてる時分には、よく沢田さんの御宅へ伺っては、歌なぞを咏《よ》んだものだぞや」
こうお種が言出したので、老人も思出したように、
「ええ……左様《さよう》だ……貴方がたの父親さんは、こう大きな懐《ふところ》をして、一ぱい書籍《ほん》を捩込《ねじこ》んでは歩かっせる人で……」
思わず三吉は、この姉の家で、父の旧友の一人に逢《あ》った。背の低い、瘠《やせ》ぎすな、武士らしい威厳を帯びた、憂鬱と老年とで震えているような人を見た。三吉も狂死した父のことを考える年頃である。
主人の達雄は高い心の調子でいる時であった。中の間にある古い柱の下が日々の業務を執るところで、番頭や手代と机を並べて、朝は八時頃から日の暮れるまで倦《う》むことを知らずに働いた。沈香《じんこう》、麝香《じゃこう》、人参《にんじん》、熊《くま》の胆《い》、金箔《きんぱく》などの仕入、遠国から来る薬の注文、小包の発送、その他達雄が監督すべきことは数々あった。包紙の印刷は何程《どれほど》用意してあるか、秋の行商の準備《したく》は何程出来たか、と達雄は気を配って、時には帳簿の整理のかたわら、自分でも包紙を折ったり、印紙を貼《は》ったりして、店の奉公人を助け励ました。
そればかりでは無い。達雄は地方の紳士として、外部《そと》から持込んで来る相談にも預り、種々《いろいろ》土地の為に尽さなければ成らない事も多かった。尤《もっと》も、政党の争闘《あらそい》などはなるべく避けている方で、祖先から伝わった業務の方に主《おも》に身を入れた。達雄の奮発と勉強とは東京から来た三吉を驚かした位である。
三吉が着いて三日目にあたる頃、連《つれ》の直樹は親戚の家へ遊びに行った。その日は午後から達雄も仕事を休んで、奥座敷の方に居た。そこは家のものの居間にしてあるところで、襖《ふすま》一つ隔てて娘達の寐《ね》る部屋に続いている。「お仙や」とお種は茶戸棚の前に坐りながら呼んだ。お仙は次の新座敷に小机を控えて、余念もなく薬の包紙を折っていたが、その時面長な笑顔を出した。
「お前さんも御休みなさい。皆なで御茶を頂きましょう」
とお種に言われて、お仙は母の側へ来て、近過ぎるほど顔を寄せた。母の許を得たということがこの娘に取って何よりも嬉しかった。
三吉も入って来た。
「貴方」とお種は夫の方を見て、「ちょっとまあ見てやって下さい。三吉がそこへ来て坐った様子は、どうしても父親《おとっ》さんですよ……手付《てつき》なぞは兄弟中で彼《あれ》が一番|克《よ》く似てますよ」
「阿爺《おやじ》もこんな不恰好《ぶかっこう》な手でしたかね」と三吉は笑いながら自分の手を眺める。
お種も笑って、「父親さんが言うには、三吉は一番学問の好きな奴だで、彼奴《あいつ》だけには俺《おれ》の事業《しごと》を継がせにゃならん……何卒《どうか》して彼奴だけは俺の子にしたいもんだなんて、よくそう言い言いしたよ」
三吉は姉の顔を眺めた。「あの可畏《こわ》い阿爺が生きていて、私達の為《し》てることを見ようものなら、それこそ大変です。弓の折かなんかで打《ぶ》たれるような目に逢います」
「しかし、お前さん達の仕事は何処《どこ》へでも持って行かれて都合が好いね」とお種が笑った。
達雄は胡坐《あぐら》にした膝《ひざ》を癖のように動《ゆす》ぶりながら、「近頃の若い人には、大分種々な物を書く人が出来ましたネ。文学――それも面白いが、定《きま》った収入が無いのは一番困りましょう」
「言わば、お前さん達のは、道楽商売」とお種も相槌《あいづち》を打つ。
三吉は答えなかった。
「正太もね、お前さん達の書いた物は好きで、よく読む」とお種は言葉を続けて、「やっぱり若い者は若い者同志で、何処か似たような処も有ろうから、なるべく彼《あれ》にも読ませるようにしていますよ……ええええ、そりゃあもう今の若い者が私達のような昔者の気では駄目です――そんなことを言ったって、三吉、これでも若い者には負けない気だぞや――こうまあ私は思うから、なるべく正太の気分が開けて行くように……何かまたそういう物でも読ませたら、彼の為に成るだろうと思って……」
「為に成るようなことは、先ずありません」
こう三吉が言ったので、お種は夫と顔を見合せて、苦笑《にがわらい》した。
「お仙、兄さんにも、御茶が入りましたからッて、そう言っていらッしゃい」
こうお種は娘に言付けて、表座敷の方に居る正太を呼びにやった。
正太と三吉とは、年齢《とし》が三つしか違わない。背は正太の方が隆《たか》い。そこへ来て三吉の傍に坐ると、叔父|甥《おい》というよりか兄弟のように見える。
正太が入って来ると同時に、急に達雄は厳格に成った。そして、黙って了《しま》った。
正太もあまり口数を利かないで、何となく不満な、焦々《いらいら》した、とはいえ若々しい眼付をしながら、周囲《あたり》を眺め廻した。
古い床の間の壁には、先祖の書いた物が幅広な軸に成って掛っている。それは竹翁《ちくおう》と言って、橋本の薬を創《はじ》めた先祖で、毎年の忌日には必ず好物の栗飯を供え祭るほど大切な人に思われている。その竹翁の精神が、何時《いつ》までも書いた筆に遺《のこ》って、こうして子孫に臨んでいるかのようにも見える。
この室内の空気は若い正太に何の興味をも起させなかった。彼の眼には、すべてが窮屈で、陰気で、物憂《ものう》いほど単調であった。彼は親の側に静止《じっと》していられないという風で、母が注《つ》いで出した茶を飲んで、やがてまたぷいと部屋を出て行って了った。
達雄は嘆息して、
「三吉さん、お前さんの着いた日から私は聞いてみたい聞いてみたいと思って、まだ言わずにいることが有るんですが……お前さんが持っているその時計ですね……」
「これですか」と三吉は兵児帯《へこおび》の間から銀側時計を取出して、それを大きな卓《つくえ》の上に置いた。
「極く古い時計でサ、裏にこんな彫のしてある――」
「実はその時計のことで……」と達雄は言|淀《よど》んで、「正太を東京へ修業に出しました時に、私が特に注意して、金時計を一つくれてやったんです――まあ、そういう物でも持たしてやれば、普通の書生とも見られまいかと思いまして――ネ。ところが一夏、彼《あれ》が帰って来た時に、他の時計をサゲてる。金時計はどうしたと私が聞きましたら、友達から是非貸してくれと言われて置いて来ました、そのかわり友達のを持って来ました、こう言うじゃありませんか。どうでしょう、その友達の時計が今度来たお前さんの帯の間に挾《はさ》まってる……」
三吉は笑出した。「一体これは宗《そう》さんの時計です。近頃私が宗さんから貰ったんです。多分正太さんも宗さんから借りて来たんでしょう」
達雄はお種と顔を見合せた。宗さんとは三吉が直ぐ上の兄にあたる宗蔵のことである。「どうも不思議だ、不思議だと思った」と達雄が言った。
「三吉の方が正直なと見えるテ」とお種も考深い眼付をする。
金側の時計が銀側の時計に変ったということは、三吉にはさ程《ほど》不思議でもなかった。「正直なと見えるテ」と言われる三吉にすら、それ位のことは若いものに有勝《ありがち》だと思われた。達雄はそうは思わなかった。
「どういう人に成って行くかサ」とお種は更に吾子《わがこ》のことを言出して、長い羅宇《らう》の煙管《きせる》で煙草《たばこ》を吸付けた。「一体|彼《あれ》は妙な気分の奴で、まだ私にも好く解らないが――為《す》る事がどうも危《あぶな》くて危くて――」
「正太さんですか」と三吉も巻煙草を燻《ふか》しながら、「なにしろ、まだ若いんですもの。話をして見ると心地《こころもち》の好い人ですがねえ。どうかするとこう物凄《ものすご》いような感じのすることが有る。あそこは、僕は面白いところじゃないかと思いますよ」
「実は、私も、そうも思って見てる」
こう達雄が言った。
「何卒《どうか》まあウマくやって貰わないと――橋本の家に取っては大事な人だで」とお種は三吉の方を見て、「兄さんもこの節は彼のことばかり心配してますよ。吾家《うち》でも、御蔭で、大分商法が盛んに成って、一頃から見ると倍も薬が売れる。この調子で行きさえすれば内輪《うちわ》は楽なものなんですよ。他に何も心配は無い。唯、彼が……」と言いかけて、声を低くして、「近頃懇意にする娘が有るだテ」
「有りそうなことだ」と三吉は正太を弁護するように言う。
「お前さんは直にそうだ」とお種は叱って見せて、「若いものの肩ばかり持つもんじゃ有りませんよ」
「やはりこの町の人ですか」と三吉が聞いた。
「ええ、そうですよ」とお種は受けて、「兄さんにしろ、私にしろ、どうもそこが気に入らん」
こういう話をして居る間、お仙は手持無沙汰《てもちぶさた》に起《た》ったり坐ったりして、時には親達の話の中で解ったと思うことが有る度に、独《ひと》り微笑《ほほえ》んだりしていたが、つと母の傍へ寄った。
「お仙ちゃん、御話が解りますかネ」とお種は母らしい調子で言った。
「ええ、解る」とお仙は両親の顔を見比べながら。
「解るは、よかった」達雄は笑った。
お種は三吉の方を見て、「すこし込入った話に成ると、お仙には好く解らない風だ。そのかわり、奇麗な気分のものだぞや」
「真実《ほんと》に、好い姉さんに成りましたネ」と三吉が言う。
「彼女《あれ》も最早《もう》女ですよ。その事は私がよく言って聞かせて、誰にでも普通《あたりまえ》に有ることだからッて教えて置いたもんですから、ちゃんと承知してる。こうして大きく成って、可惜《おし》いようなものだが、仕方が無い。行く行くは一軒別にでもして、彼女が独りで静かに暮せるようだったら、それが何よりですよ」
「そんなことをしないたッて、お婿さんを貰ってやるが可い」と三吉は戯れるように言った。
「叔父さんはああいうことを言う……」
とお仙は呆《あき》れて、笑い転げるように新座敷へ逃出した。
風呂が沸いたと言って、下婢《おんな》のお春が告げに来た頃、先ず達雄は連日の疲労を忘れに行った。
「お仙、ちゃっと髪を結って了《しま》わまいかや」とお種は、炉辺へ来て待っている髪結を呼んで、古風な鏡台だの櫛箱《くしばこ》だのを新座敷の方へ取出した。
「三吉。すこし御免なさいよ」とお種は鏡の前に坐りながら言った。「私は花が好きだで、今年も丹精して造りましたに見て下さい――夏菊がよく咲きましたでしょう」
三吉は庭に出て、大きな石と石の間を歩いたが、不図《ふと》姉の後に立つ女髪結を見つけて不思議そうに眺めていた。髪結は種々な手真似《てまね》をしてお種に見せた。お種は笑いながら、庭に居る弟の方を見て、「この髪結さんは手真似で何でも話す。今東京から御客さんが来たそうだが、と言って私に話して聞かせるところだ――唖《おし》だが、悧好《りこう》なものだぞい」こう言い聞かせた。
深い屋根の下にばかり日を送っているお種は、この唖の髪結を通して、女でなければ穿鑿《せんさく》して来ないような町の出来事を知り得るのである。髪結は又、人の気の付かないことまで見て来て、それを不自由な手真似で表わして見せる。その日も、親指を出したり、小指を出したり、終《しまい》に額のところへ角を生《はや》す真似をしたりして、世間話を伝えながら笑った。
日暮に近い頃から、達雄、三吉の二人は涼しい風の来る縁先へ煙草盆を持出した。大番頭の嘉助も談話《はなし》の仲間に加わった。そこへお仙やお春が台所の方から膳《
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