っかく》思い立った東京の遊学すら、中途で空《むな》しく引戻されて了った。やれ大旦那が失敗したから、若旦那には学問は無用だことの、やれ単独《ひとり》で都会に置くのは危いことの、種々な故障が薬方の衆から出た。「家なぞはどうでもいい」と思うことは屡々《しばしば》有ったのである。
 この座敷から谷底の方に聞える木曾川《きそがわ》の音も、正太には何の新しい感じを起させなかった。彼は森林の憂鬱にも飽き果てた。「こうして――一生――山の中に埋れて了《しま》うのかナア」それを考えてみたばかりでも、彼には堪え難かった。どうかすると、彼は話の途中で耳を澄ました。そして、引入れられるような眼付をして、熟《じっ》と渓流の音に聞き入って。
 お種が入って来た。
「ネブ茶を香ばしく入れましたから、持って来ました」とお種は款待顔《もてなしがお》に言て、吾子《わがこ》と弟の顔を見比べて、「正太や、叔父さんにも注《つ》いで進《あ》げとくれ」
 この「ネブ茶」はある灌木《かんぼく》の葉から製したもので、三吉も子供の時分には克《よ》く飲み慣れた飲料である。
「どうでした、吾家《うち》の蔵には三吉の見るような書物《ほん》が有
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