だ。何気なく三吉はその一冊を取上げて見た。
直樹の父親の名なぞが出て来た。それは三吉が姉と一緒に東京で暮した頃の事実《こと》で、ところどころ拾って読んで行くうちに、少年時代の記憶が浮び揚《あが》った。その頃は姉の住居《すまい》でもよく酒宴を催したものだった。直樹の父親が来て、「木曾のナカノリサン」などを歌い出せば、達雄は又、清《すず》しい、恍惚《ほれぼれ》とするような声で、時の流行唄《はやりうた》を聞かせたものだった。直樹の父親もよく細《こまか》い日記をつけた。これはそう細いという方でもないが、何処《どこ》か成島柳北《なるしまりゅうほく》の感化を思わせる心の持方で、放肆《ほしいまま》な男女《おとこおんな》の臭気《におい》を嗅《か》ぐような気のすることまで、包まず掩《おお》わずに記しつけてある。思いあたる事実《こと》もある。
静かな蔵の窓の外には、熱い明るい空気を通して庭の草木も蒸されるように見える。三吉はその窓のところへ行って、誰がこの柳行李の蓋を取て置いたかと想像した。あるいは正太がこの隠れた場処で、父の耽溺《たんでき》の歴史を読みかけて置いたものではなかろうか、と想《おも》って
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