ら帰って用を達して下さい。最早《もう》船に乗るだけの話で、海さえ平穏《おだやか》なら伊東へ着くのは造作ない――私|独《ひと》りで行きます」
「そうか……そうして貰えると、俺も大きに難有《ありがた》い……しかし、お前独りで大丈夫かナ」と達雄が言った。
「大丈夫にも何にも。ここまで貴方に送って頂けば沢山です。初めての旅ではないし、それに伊東へ行けば多分林さん御夫婦や御隠居さんが来ていらっしゃるで、何にも心配なことは有りません」
「じゃあ、ここでお前に別れるとしよう……こうっと、俺はこれから直に東京へ引返して、銀行の方の用達をしてト……大多忙《おおいそがし》」
 こういう話しをしているところへ、宿の下婢《おんな》が船の時間を知らせに来た。東京の方へ出る汽車が有ると見えて、宿を発《た》って行く旅人も有った。
「汽車が出るそうな」とお種は聞耳を立てた。「丁度好い――この汽車に乗らっせるが可い」
「伊東まで行く思をして御覧な」と達雄は言った。「なにも、そんなに周章《あわ》てなくても好い。汽車はいくらも出る」
「でも、貴方は、一日を争う身だなんて仰《おっしゃ》っていらしったで……それほど大切な時なら
前へ 次へ
全293ページ中215ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング