た。その年の初夏ほど、三吉も寂しい旅情を経験したことは無かった。奥の庭には古い林檎の樹があって、軒に近い枝からは可憐《かれん》の花が垂下った。蜜蜂《みつばち》も来て楽しい羽の音をさせた。すべての物の象《かたち》は、始めて家を持った当時の光景《ありさま》に復《かえ》って来た。
「俺の家は旅舎《やどや》だ――お前は旅舎の内儀《おかみ》さんだ」
「では、貴方は何ですか」
「俺か。俺はお前に食物《くいもの》をこしらえて貰ったり、着物を洗濯して貰ったりする旅の客サ」
「そんなことを言われると心細い」
「しかし、こうして三度々々御飯を頂いてるかと思うと、難有《ありがた》いような気もするネ」
こんな言葉を夫婦は交換《とりかわ》した。
ヒョイヒョイヒョイヒョイと夕方から鳴出す蛙の声は余計に旅情をそそるように聞える。それを聞くと、三吉は堪え難いような目付をして、家の内を歩き廻った。
新婚の当時のことは未だ三吉の眼にあった。東京を発って自分の家の方へ向おうとする旅の途中――岡――躑躅《つつじ》――日の光の色――何もかも、これから新しい生涯に入ろうとするその希望で輝かないものは無かった。洋燈《ランプ》
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