知らないことが沢山ある」この思想《かんがえ》から、一度破って出た旧《ふる》い家へ死すべき生命《いのち》も捨てずに戻って来た。その時から彼はこの世の艱難《かんなん》を進んで嘗《な》めようとした。艱難は直に来た。兄の入獄、家の破産、姉の病気、母の死……彼は知らなくても可いようなことばかり知った。一縷《いちる》の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開こうと思った。東京を発《た》つ時、稲垣が世帯持の話をして、「面白いのは百日ばかりの間ですよ」と言って聞かせたが、丁度その百日に成るか成らないかの頃、最早自分の家を壊そうとは三吉も思いがけなかった。
倒死《のたれじに》するとも帰るなと堅く言ってよこしたという名倉の父の家へ、果してお雪が帰り得るであろうか。それすら疑問であった。お雪は既に入籍したものである。法律上の解釈は自分等の離縁を認めるであろうか。それも覚束《おぼつか》なかった。三吉はある町に住む弁護士の智慧《ちえ》を借りようかとまで迷った。蚊屋《かや》の内へ入って考えた。夏の夜は短かかった。
三吉は家を出た。彼の足は往時《むかし》自分の先生であったという学校の校長の住居《
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