いたが、名倉さんにもお目に懸らなくて失礼しました。今日は一つ、皆なに西洋料理でも御馳走《ごちそう》しよう」こう森彦は言って、茶盆を取出して置いて手を鳴らした。
「何か御用で御座いますか」と宿の内儀《かみさん》が入って来た。
「ヤ、内儀《おかみ》さん、これが弟の嫁です」と森彦はお雪を紹介した。「時に、何か甘い菓子を取りに遣《や》って下さい」
「では、僕も巻煙草を頼もう」と三吉が言った。
「三吉はえらく煙草を燻《ふか》すように成ったナ」と森彦はすこし顔をシカめた。この兄は煙草も酒もやらなかった。
 昼食《ひる》には、四人で連立って旅舎を出た。森彦は弟達をある洋食屋の静かな二階へ案内した。そこで故郷の方に留守居する自分の家族の噂《うわさ》をした。


 森彦にも遇《あ》わせた。三吉は更に、妻の友達にも、と思って、二人の婦人《おんな》の知人《しりびと》を紹介しようとした。お雪も逢ってみたいと言う。で、順にそういう人達の家を訪問することにした。
 暮れてから、三吉は曾根《そね》という家の方へお雪を連れて行った。
 曾根は、お雪が学校時代の友達の叔母にあたる人で、姉の家族と一緒に暮していた。細長い陶器《せともの》の火鉢を各自《めいめい》に出すのがこの家の習慣に成っていた。その晩はある音楽者の客もあって、火鉢が何個《いくつ》も出た。ここはすべてが取片付けてあって、あまり部屋を飾る物も置いて無い。子供のある家で、時々泣出す声も聞える。六つばかりに成る、色の白い、髪を垂下げた娘が、曾根の傍へ来て、三吉夫婦に御辞儀をした。
「まあ、可愛らしいお娘《こ》さんですね」
 とお雪が言うと、娘は神経質らしい容子《しな》をして、やがてキマリが悪そうに出て行った。
 お雪から見ると、曾根は年長《としうえ》だった。お雪の眼には、憂鬱《ゆううつ》な、気心の知れない、隠そう隠そうとして深く自分を包んでいるような、まだまだ若く見える女が映った。曾根は最早いろいろな境涯を通り越して来たような人であった。言葉も少なかった。
 客もあったので、夫婦は長くも居なかった。小泉の兄の家へ帰ってから、三吉はこんな風に妻に尋ねてみた。
「どうだね、あの人達は」
「そうですね……」
 とお雪は返事に窮《こま》った。交際《つきあ》って見た上でなければ、彼女には何とも言ってみようが無かった。
 翌日《あくるひ》の午後、三吉達は
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