い》を遣るものは、僅かにこの和歌である。読み聞かせているうちに、痛憤とも、悔悟とも、冷笑とも、名の付けようの無い光を帯びた彼の眼から――ワンと口を開いたような大きな眼から、絶間《とめど》もなく涙が流れて来た。
「つくづく君の留守に考えたよ」と宗蔵は手拭《てぬぐい》を取出して、汗でも出たように顔中|拭廻《ふきまわ》した。「今年の夏ほど僕も種々《いろいろ》なことを思ったことはないよ。アア」
「そんなに苦しかったんですかネ」と三吉も宗蔵の顔を眺《なが》めた。「木曾に居ても随分暑い日は有りました――東京から見ると朝晩は大変な相違《ちがい》でしたが」
「いや、暑いにも何にも。加《おまけ》に風通しは悪いと来てる。僕なぞはあの窓のところに横に成ってサ、こう熟《じっ》と身体を動かさずにいたこともあった。そうすると、君、阿爺《おやじ》のことが胸に浮んで来る……母親《おっか》さんのことも出て来る……」
冷い壁の下の方へ寄せて、隅《すみ》のところに小窓が切ってある。その小窓の側が宗蔵の病躯《びょうく》を横える場処である。
宗蔵は言葉を継いだ。「阿爺と言えば、阿爺の書いた物を大分君の留守に調べたよ。それから僕の持ってる書籍《ほん》で、君の参考に成るだろうと思うようなものも、可成《かなり》有るよ。ああいうものはいずれ君の方へ遣ろう。君に見て貰おう」
部屋の前は、山茶花《さざんか》などの植えてある狭い庭で、明けても暮れても宗蔵の眺める世界はこれより外は無かった。以前には稲垣あたりへよく話しに出掛けたものだが、それすら煩《うる》さく思うように成った。彼の許《ところ》へと言って別に訪ねて来る人も無かった。世間との交りは全く絶え果てた形である。
町の響が聞える……
宗蔵は聞入って、「三吉さん、君だからこんな話をするんだが、僕だって、君、そう皆なから厄介者に思われて、ここの家に居たく無い。ことしの夏は僕もつくづく考えた……三四日ばかり何物《なんに》も食わずにいてみたことも有った……しかし人間は妙なものさね、死のうと思ったッて時が来なければ容易に死ねる訳のものでは無いね……」
こんなことを、さもさも尋常《あたりまえ》の話のように宗蔵が言出した。まるで茶でも飲み飯でも食うと同じように。
「どうかすると、『宗さんは御変りも御座いませんか』なんて、いかにも親切らしく言ってくれる人がある。あれは
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