旦那でも何でもない。散々御取持をさせて置いて、ぷいと引揚げて行って了《しま》った。兄さんも不覚だったネ。稲垣《いながき》まで付いていてサ。加《おまけ》に、君、その旦那を紹介した男が、旅費が無くなったと言って、吾家《うち》へ転《ころ》がり込んで来る……その男は可哀想《かわいそう》だとしたところで、旅費まで持たして、発《た》たして遣るなんて……ツ……御話にも何も成りゃしないやね」
「真実《ほんとう》に、あんな馬鹿々々しい目に遇《あ》ったことは無い――考えたばかりでも業《ごう》が煎《い》れる」と嫂も言った。
「僕は、君、悪《にく》まれ口《ぐち》を利くのも厭《いや》だと思うから、黙って見ていたがネ」と宗蔵は病身らしい不安な眼付をして、「この調子で進んで行ったら、小泉の家は今にどうなるだろうと思うよ」
「例の車の方はどんな具合ですか」こう三吉が聞いた。
「なんでも、未だ工場で試験中だということですが、事業が大き過ぎるんですもの」と嫂が言う。
「借財が大きいから自然こういうことに成って来る」と宗蔵も考えて、「なにしろまあ、ウマクやって貰わないことには……僕は兄さんの為に心配する……復《ま》た同じ事を繰返すように成る……留守居は、君、散々|仕飽《しあ》きたからね」
宗蔵は噛返《かみかえ》しというを為《す》るのが癖で、一度食った物を復た口の中へ戻して、何やら甘《うま》そうに口を動かしながら話した。
では、どうすれば可いか、ということに成ると、事業家でない宗蔵や商売《あきない》一つしたことの無いお倉には、何とも言ってみようが無かった。で、宗蔵は復た物事が贅沢《ぜいたく》に流れて来たの、道具を並べ過ぎるの、ああいう火鉢は余計な物だの、と細《こまか》いことを数え立てた。嫂は嫂で、どうもこの節下女がすこしメカシ過ぎるというようなことまで心配して三吉に話した。
「三吉さん、貴方《あなた》からよく兄さんに話して下さい」とお倉は言った。「私が何を聞いたッて、まるで相手にしないんですもの――事業の方のことなんか、何事《なんに》も話して聞かせないんですもの」
「道具だってもそうだ」と宗蔵は思出したように、「奥の床の間を見給え、文晁《ぶんちょう》のイカモノが掛かってる。僕ならば友達の書いた物でも可いからホンモノを掛けて楽むネ」こう言って、何もかも不平で堪《た》えられないような、病人らしい、可傷
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