案内したは、奥座敷の横に建増した納戸《なんど》で、箪笥《たんす》だの、鏡台だの、その他|種々《いろいろ》な道具が置並べてある。襖《ふすま》には、亡《な》くなった橋本の老祖母さんの里方の縁続きにあたる歌人の短冊《たんざく》などが張付けてある。
「私が橋本へ来るに就いて、髪を結う部屋が無くては都合が悪かろうと言って、ここの老祖母さんが心配して造って下すった――老祖母さんはナカナカ届いた人でしたからね」とお種は説き聞かせた。
「へえ、その時分は姉さんも若かったんでしょうネ」と三吉が笑った。
「そりゃそうサ、お前さん――」と言いかけて、お種も笑って、「考えて御覧な――私がお嫁に来たのは、今のお仙より若い時なんですもの」
 薬研《やげん》で物を刻《おろ》す音が壁に響いて来る。部屋の障子の開いたところから、斜《はす》に中の間の一部が見られる。そこには番頭や手代が集って、先祖からこの家に伝わった製薬の仕事を励んでいる。時々盛んな笑声も起る……
「何かまた嘉助が笑わしていると見えるわい」
 と言いながら、お種は弟を導いて、奥座敷の暗い入口から炉辺の方へ出た。大きな看板の置いてある店の横を通り過ぎると、坪庭に向いた二間ばかりの表座敷がその隣にある。
 三吉は眺め廻して、「心地《こころもち》の好い部屋だ――どうしても田舎の普請は違いますナア」
「ここをお前さん達に貸すわい」と姉が言った。「書籍《ほん》を読もうと、寝転《ねころ》ぼうと、どうなりと御勝手だ」
「姉さん、東京からこういうところへ来ると、夏のような気はしませんね」
「平素《ふだん》はこの部屋は空《あ》いてる。お客でもするとか、馬市でも立つとか、何か特別の場合でなければ使用《つか》わない。お前さんと、直樹さんと、正太と、三人ここに寝かそう」
「ア――木曾川の音がよく聞える」
 三吉は耳を澄まして聞いた。
 間もなくお種は弟を連れて、店先の庭の方へ降りた。正太が余暇に造ったという養鶏所だの、桑畠だのを見て、一廻りして裏口のところへ出ると、傾斜は幾層かの畠に成っている。そこから小山の上の方の耕された地所までも見上げることが出来る。
 二人は石段を上った。掩《おお》い冠さったような葡萄棚《ぶどうだな》の下には、清水が溢《あふ》れ流れている。その横にある高い土蔵の壁は日をうけて白く光っている。百合《ゆり》の花の香《におい》もして来る。

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