彼は若い志望を擲《なげう》とうとしたり、落胆の極に沈んだりして、多くの暗い年月を送ったもので有った。
 実が残して行った家族――お倉、娘二人、それから他へ預けられている宗蔵、この人達は、森彦と三吉とで養うより外にどうすることも出来なかった。それを森彦が相談して寄した。この東京からの消息を、三吉はお雪に見せて、実にヤリキレないという眼付をした。
「まあ、実兄さんもどうなすったと言んでしょうねえ」
 と言って、お雪も呆《あき》れた。夫婦は一層の艱難《かんなん》を覚悟しなければ成らなかった。
 冬至には、三吉の家でも南瓜《かぼちゃ》と蕗味噌《ふきみそ》を祝うことにした。蕗の薹《とう》はお雪が裏の方へ行って、桑畑の間を流れる水の辺《ほとり》から頭を持上げたやつを摘取って来た。復た雪の来そうな空模様であった。三吉は学校から震えて帰って来て、小倉の行燈袴《あんどんばかま》のなりで食卓に就《つ》いた。相変らず子供は母の言うことを聞かないで、茶椀《ちゃわん》を引取るやら、香の物を掴《つか》むやら、自分で箸《はし》を添えて食うと言って、それを宛行《あてが》わなければ割れる様な声を出して泣いた。折角《せっかく》祝おうとした南瓜も蕗味噌も碌《ろく》にお雪の咽喉《のど》を通らなかった。
「母さんは御飯が何処へ入るか分らない……」


 お雪はすこし風邪《かぜ》の気味で、春着の仕度を休んだ。押詰ってからは、提灯《ちょうちん》つけて手習に通って来る娘達もなかった。お雪が炬燵《こたつ》のところに頭を押付けているのを見ると、下婢《おんな》も手持無沙汰の気味で、アカギレの膏薬《こうやく》を火箸《ひばし》で延ばして貼《は》ったりなぞしていた。
 寒い晩であった。下婢は自分から進んで一字でも多く覚えようと思うような娘ではなかったが、主人の思惑《おもわく》を憚《はばか》って、申訳ばかりに本の復習《おさらい》を始めた。何時《いつ》の間にか彼女の心は、蝗虫《いなご》を捕《と》って遊んだり草を藉《し》いて寝そべったりした楽しい田圃側の方へ行って了った。そして、主人に聞えるように、同じところを何度も何度も繰返し読んでいるうちに、眠くなった。本に顔を押当てたなり、そこへ打臥《つッぷ》して了《しま》った。
 急に、お房が声を揚げて泣出した。復《ま》た下婢は読み始めた。
「風邪を引いてるじゃないか。ちっとも手伝いをして
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