すまい》の方へ向いた。古い屋敷風の門を入って、裏口へ廻ってみると、向の燕麦《からすむぎ》を植えた岡の上に立ってしきりと指図《さしず》をしている人がある。その人が校長だ。先生は三吉を見つけて、岡を下りて来た。先生の家では学校の小使を使って可成《かなり》大きな百姓ほど野菜を作っていた。
師はやがて昔の弟子《でし》を花畠に近い静かな書斎の方へ導いた。最早入歯をする程の年ではあったが、気象の壮《さか》んなことは壮年《わかもの》にも劣らなかった。長い立派な髯《ひげ》は余程白く成りかけていた。この阿爺《おと》さんとも言いたいような、親しげな人の顔を眺めて、三吉は意見を聞いてみようとした。他《ひと》に相談すべき事柄では無いとも思ったが、この先生だけには簡単に話して、どう自分の離縁に就《つい》て考えるかを尋ねた。先生は三吉の為に媒妁の労を執《と》ってくれた大島先生のそのまた先生でもある。
雅致のある書斎の壁には、先生が若い時の肖像と、一番最初の細君の肖像とが、額にして並べて掛けてあった。
「そんなことは駄目です」と先生は昔の弟子の話を聴取《ききと》った後で言った。「我輩のことを考えてみ給え――我輩なぞは、君、三度も家内を貰った……最初の結婚……そういう若い時の記憶は、最早二度とは得られないね。どうしても一番最初に貰った家内が一番良いような気がするね。それを失うほど人間として不幸なことは無い。これはまあ極く正直な御話なんです……」
三吉は黙って先生の話を聞いていた。先生は往時《むかし》戦争にまで出たことのある大きな手で、種々《いろいろ》な手真似《てまね》をして、
「君なぞも、もっと年をとってみ給え、必《きっ》と我輩の言うことで思い当ることが有るから……我輩はソクラテスで感心してることが有る。ソクラテスの細君と言えば、君、有名な箸《はし》にも棒にも掛らないような女だ……それをジッと辛抱した……一生辛抱した……ナカナカあの真似はできないね……あそこが我輩はあの哲学者の高いところじゃないかと思うね」
先生の話は宗教家のような口調を帯びて来た。そして、種々なところへ飛んで、自分の述懐に成ったり、亜米利加《アメリカ》時代の楽しい追想に成ったりする。
「亜米利加の婦人なぞは、そこへ行くと上手なものだ。以前に相愛の人でも、自分の夫に紹介して、奇麗に交際して行く―― 'He is my lo
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