入った豆を豚の脂《あぶら》でいためて、それにお雪は塩を添えたものを別に夫の皿へつけた。彼女は夫の喜ぶ顔を見たいと思った。
「頂戴《ちょうだい》」
 とお福や書生は食い始めた。三吉は悪い顔色をして、折角お雪が用意したものを味おうともしなかった。
「今日は碌《ろく》に召上らないじゃ有りませんか……」
 と言って、お雪は萎《しお》れた。
 その晩、三吉は遅くまで机に対って、書籍《ほん》を開けて見たが、彼が探そうと思うようなものは見当らなかった。復た夜通し考え続けた。名倉の母へ手紙でも書こうか、お雪の親しい友達に相談しようか、と思い迷った。
 錯乱した頭脳《あたま》は二晩ばかり眠らなかった為に、余計に疲れた。彼はお雪と勉の愛を心にあわれにも思った。ブラリと家を出て、復た日の暮れる頃まで彷徨《うろつ》いた三吉は、離縁という思想《かんがえ》を持って帰って来た。もし出来ることなら、自分が改めて媒妁《ばいしゃく》の労を執って、二人を添わせるように尽力しよう、こんなことまで考えて来た。
 家出――漂泊――死――過去ったことは三吉の胸の中を往《い》ったり来たりした。「自分は未だ若い――この世の中には自分の知らないことが沢山ある」この思想《かんがえ》から、一度破って出た旧《ふる》い家へ死すべき生命《いのち》も捨てずに戻って来た。その時から彼はこの世の艱難《かんなん》を進んで嘗《な》めようとした。艱難は直に来た。兄の入獄、家の破産、姉の病気、母の死……彼は知らなくても可いようなことばかり知った。一縷《いちる》の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開こうと思った。東京を発《た》つ時、稲垣が世帯持の話をして、「面白いのは百日ばかりの間ですよ」と言って聞かせたが、丁度その百日に成るか成らないかの頃、最早自分の家を壊そうとは三吉も思いがけなかった。
 倒死《のたれじに》するとも帰るなと堅く言ってよこしたという名倉の父の家へ、果してお雪が帰り得るであろうか。それすら疑問であった。お雪は既に入籍したものである。法律上の解釈は自分等の離縁を認めるであろうか。それも覚束《おぼつか》なかった。三吉はある町に住む弁護士の智慧《ちえ》を借りようかとまで迷った。蚊屋《かや》の内へ入って考えた。夏の夜は短かかった。


 三吉は家を出た。彼の足は往時《むかし》自分の先生であったという学校の校長の住居《
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