は不思議でもなかった。唯、妻が自己《おのれ》の周囲《まわり》を見過《みあやま》らないで、従順《すなお》に働いてくれさえすればそれで可い、こう思った。彼には心を労しなければ成らないことが他に沢山有った。
畠の野菜にもそれぞれ手入をすべき時節であった。三吉は鍬《くわ》を携えて、成長した葱《ねぎ》などを見に行った。百姓の言葉でいう「サク」は最早何度かくれた。見廻る度に延びている葱の根元へは更に深く土を掛けて、それから馬鈴薯の手入を始めた。土を掘ってみると、可成《かなり》大きな可愛らしいやつが幾個《いくつ》となく出て来た。
「ホウ、ホウ」
と三吉は喜んで眺《なが》めた。
裏の流で取れただけの馬鈴薯を洗って、三吉は台所の方へ持って行って見せた。お雪もめずらしそうに眺めた。新薯は塩茹《しおゆで》にして、食卓の上に置かれた。家のものはその周囲《まわり》に集って、自分達の手で造ったものを楽しそうに食ったり、茶を飲んだりした。
その晩、三吉はお福や書生を奥の部屋へ呼んで、骨牌《トランプ》の相手に成った。黄ばんだ洋燈《ランプ》の光は女王だの兵卒だのの像を面白そうに映して見せた。お福はよく勝つ方で、兄や若い書生には負けずに争った。お雪も暫時《しばらく》仲間入をしたが、やがてすこし頭が痛いと言って、その席を離れた。
炉辺《ろばた》の洋燈は寂しそうに照していた。何となくお雪は身体が倦《だる》くもあった。毎月あるべき筈《はず》のものも無かった。尤《もっと》も、さ程気に留めてはいなかったので、炉辺で独《ひと》り横に成ってみた。
奥の部屋では楽しい笑声が起った。一勝負済んだと見えた。復た骨牌が始まった。頭の軽い痛みも忘れた頃、お雪は食卓の上に巻紙を展《ひろ》げた。彼女は勉への返事を書いた。つい家のことに追われて、いそがしく日を送っている……この頃の御無沙汰《ごぶさた》も心よりする訳では無いと書いた。妹との結婚を承諾してくれて、自分も嬉しく思うと書いた。恋しき勉様へ……絶望の雪子より、と書いた。
この返事をお雪は翌日《あくるひ》まで出さずに置いた。折を見て、封筒の宛名だけ認《したた》めて、肩に先方《さき》から指してよこした町名番地を書いた。表面《おもて》だって交換《とりか》わす手紙では無かったからで。お雪は封筒の裏に自分の名も書かずに置いた。箪笥《たんす》の上にそれを置いたまま、妹
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