。何もかも吾儕の生活とは懸離れて居る。湯は温《ぬる》かつたが後はポカ/\した。晝飯《ひる》には鷄を一羽ツブして貰つた。肉は獸のやうに強《こは》かつた。骨は叩きやうが荒くて皆な齒を傷めた。しかし甘かつた。
「姉さん。」と私は山家者らしい女中に聞いて見た。「こゝは家《うち》の人だけでやつてるね……姉さんは矢張この家の人かね。」
「いゝえ、私はこゝの者ぢや御座いません。」と女中は答へた。
 この娘の出て行つた後で、A君が、「修善寺に比べると女中からして違ふネ。吾儕《われ/\》の前へ來るとビク/″\してる。」斯う考深い眼付をして言つて居た。
 日頃樫の樹に特別の興味を持つA君は誰よりも軒先に生ひ茂る青々とした葉の新しさを見つけた。この谷底の樫の樹を隔てゝ、どうかすると、雨でも降つて來たかと欺されるやうな氣のすることがあつた。よく聞けば矢張溪流の音だつた。この音から起る混交《いれまじ》つた感覺は別の世界の方へ吾儕を連れて行つた。吾儕は遠く家を離れたやうな氣がした。
「全く世間を忘れたね。」
 とK君は力を入れて言つた。
 K君と私はこの宿の繪葉書を取寄せて書いた。私はそれをA君にも勸めた。
「僕は旅から出したことが無い。」とA君が言つた。「左樣《さう》かなあ、吾家《うち》へ一枚出すかなあ。」
「M君、君も母親《おつか》さんのところへ出したら奈何《どう》です。」と私は言つて見た。
 M君は繪葉書を眺め乍ら笑つた。「めづらしいことだ――必《きつ》と誰かに教はつて寄《よこ》した、なんて言ふだらうなあ。」
 吾儕はこの二階で東京に居る人のことや、未だ互に若かつた時のことや、亡くなつた友達のことなどを語り合つた。K君は私の方を見て斯樣《こん》なことを言出した。
「僕の生涯には暗い影が近づいて來たやうな氣がするね、何となく斯う暗い可畏《おそろ》しい影が――君は其樣《そん》なことを思ひませんか。尤も、僕には兄が死んでる。だから餘計に左樣《さう》思ふのかも知れない。」
「君が死んだら、追悼會をしてやるサ。」と私は謔談《じやうだん》半分に言つた。
「今は其樣《そん》な氣樂を言つてるけれど――。」とK君は大きな體躯を搖りながら笑つた。「彼時は彼樣《あん》なことを言つたツけナア、なんて言ふんだらう。」
 到頭湯が島に泊ることに成つた。日暮に近い頃、吾儕《われ/\》は散歩に出た。門を出る時、私は宿の
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