待つに長くかゝつた。この汽船の會計らしい人は自分の室の戸を開けて、小さな植木鉢などの飾つてある机の前で丁寧に髮を撫でつけ、鞄を抱いて、それから別の艀へ移つた。甲板の上には汚れた服を着た船員が集つて、船の中で買食でもする外に歡樂《たのしみ》も無いやうな、ツマラなさうな顏付をして、上陸する人達を可羨《うらやま》しげに眺めて居た。漸く艀が來た。吾儕も陸へ急いだ。
下田の宿では夕飯の用意をして吾儕《われ/\》の歸りを待つて居た。其晩、吾儕は親類や友達へ宛てゝ紀念の繪葉書を書いた。天城を越したら送れと言つたY君を始め、信州のT君へは、K君と私と連名で書いた。旅の徒然《つれ/″\》に土地の按摩を頼んだ。温暖《あたたか》い雨の降る音がして來た。
早く起きた。雨は夜のうちに止んで、濕つた家々の屋根から朝餐《あさげ》の煙の白く登るのが見えた。音一つしなかつた。眠るやうに靜かだ。
「想像と實際に來て見たとは、斯うも違ふかナア。」とK君は下田の朝を眺めながら言つた。「まあ、僕の知つた限りでは、酒田に近い――酒田よりもうすこし纏まつてるかナ。」
「そんなに淫靡な處だとも思へないぢやないか。」と私も眺めて、「船着の町で、他《よそ》から來る人を大切にして、風俗を固守してる――それ以上は解らん。」
「斯樣《こん》な宿ぢや解らないサ。」とK君は笑つた。「料理屋へでも行つて飮食《のみくひ》して見なけりや――僕はよく左樣《さう》思ふよ、其土地土地の色は彼樣《あゝ》いふ場所へ行つて見ると、一番よく出てる。」
斯う二人で話して居ると、やがてA君とM君もそこへ一緒に成つた。吾儕はこの下田を他の種々《いろ/\》な都會に比較して見た。
「西京が斯ういふ町の代表者だ。」とM君は言つた。
「保守的だから奔放は無いサ。」
とまたM君が言つた。M君はそこまで話を持つて行かなければ承知しなかつた。
朝飯《あさはん》の後、伊東へ向けてこの宿を發つた。是非復た來たい。この次に來る時は大島まで行きたい、と互に言ひ合つた。内儀さんや娘は出て吾儕を見送つた。下女は艀の出るところまで手荷物を持つて隨いて來た。
間もなく吾儕は伊東行の汽船の中にあつた。この汽船は長津呂から下田まで乘つたと同じ型だつた。大小の帆船、荷舟、小舟、舊い修繕中の舟、其他種々雜多な型の舟、あるひは碇泊して居る舟、あるひは動いて居る舟――これらのものは
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