君はインバネスを置いて行くことにした。A君は衣服を一枚脱いだ。宿へは茶代だけやつて、それから新しい草鞋を穿いて、發つた。
長津呂《ながつろ》の漁村へ行くに丁度晝迄かゝつた。そこから斷崖の間にある細道を攀ぢた。登ると、松林の中へ出た。半島の絶端を極めたいと思ふ勃々とした心が先に立つて、吾儕はこゝへ來る迄の疲勞《つかれ》と熱苦しさとを忘れた。「僕は斯ういふ路を歩いて行くのが好きサ。」とK君は私を顧みながら言つた。「僕も好きだ。」と私が答へた。やがて松と松の間が青く光つて來た。遠江灘《とう/\みなだ》が開けた。石室崎《いらうざき》の白い燈臺のあるところまで行くと、そこで伊豆は盡きた。望樓もあつた。吾儕は制服を着た望樓の役人に逢つた。この役人は寂しい生活に飽いたやうな、生氣の無い眼付で吾儕を眺めて居た。
「A君、來て見給へ。」とM君は燈臺に近い絶壁の上に立つて呼んだ。
A君、K君續いて私もM君と一緒に成つた。吾々は深い海を下瞰《みおろ》して思はず互に顏を見合せた。其時急激な、不思議な戰慄《みぶるひ》は私の身體を傳つた。私は長くそこに立つて居られないやうな氣がした。
「同じ死ぬんなら是處《ここ》だネ。」
謔語《じやうだん》の積りで言つて見て、私は眩暈《めまひ》を紛さうとしたが、何となく底の知れない方へ引入れられるやうな氣がした。
燈臺の入口にある壁のところには額が掛けてあつた。その額の下に燈臺守の子供らしい娘が倚凭《よりかゝ》つて立つて居た。猶よく見やうとするうちに、一艘の汽船が駿河灣の方から進んで來た。
「あの船だ。」とK君が言つた。「船で歸るんなら、こゝに愚圖愚圖して居たんぢや間に合はない。」
「駄目らしいナア。」とA君は言つた。「吾儕が長津呂まで行くうちには彼船《あのふね》は出て了ふ。」
斯う言ひ合つたが、成るなら歩いて歸りたくなかつた。そこで燈臺の見物をそこ/\にして長津呂の方へ引返すことにした。
其樣《そんな》に急いで歸るにも當らなかつた。岬で見たのは別の汽船だつた。吾儕を乘せて下田まで歸る船は未だ來なかつた。汽船宿で聞くと一時間の餘も待たなければなるまいと言ふ。で案内されて、まだ新規に始めたばかりの旅舍《やどや》へ行つて、若い慣れない内儀さんに晝飯の仕度を頼んだ。
全く知らない生活を營む素朴な人々の中に、一時間ばかり居た。吾儕は草鞋穿のまゝ、廣い庭の
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