馬丁は馬車から降りて、馬の轡を執りながら歩いた。山の上までは斯うして馬に附いて行くといふ。彼は自分の財産を護るやうに――ある時は一人の友達を頼みにするやうに、馬を大事にした。馬も彼の言ふことを聞いて、脚に力を入れ、吾儕を乘せた重い車を牽きながら、御料林の中の山道を進んで行つた。
 茅野《かやの》といふ山村の入口で吾儕は三人ばかりの荒くれた女に逢つた。「ホウ、半鐘がありますぜ。斯樣なところに旅舍《やどや》も有る――是《この》次に來る時は是非あの旅舍《やどや》で泊めて貰ふんだネ。」とA君は戲れるやうに言つた。この村の出はづれに枯々とした耕地があつて、向ふの方には屋根の低い小屋が見える。樵夫《きこり》らしい男が通る。吾儕の馬車はそれから一層深く山の中へ入つた。
 半道ばかりの間、吾儕は人に逢はなかつた。立木の儘枯れた大きな幹が行先の谷々に灰白く露出《あらは》れて居た。馬丁《べつたう》に聞くと、杉の爲に壓倒された樅の枯木だといふ。この可畏《おそろ》しげな樹木の墓地の中を、一人、吾儕の方へ歩いて來る者があつた。男だ、いや女だ、と吾儕は車の中で爭つた。近《ちかづ》いて見ると、樵夫の妻でゞもあるか、空脛に草鞋穿で、寒い山路を平氣で歩いて居た。其邊は水草の多い、澤深い處だつた。薄日をうけた齒朶の葉も大きく物凄く見えた。それぎり最早《もう》誰にも逢はなかつた。次第に吾儕は激しい寒さを感じて來た。K君はM君と、A君と私と、二人づゝ堅く膝を組合せ、身體の熱を通はせるやうにして、互に温《ぬく》め合つた。馬車は天城の谷に添ふて一里ばかり上つた。車中の人は言葉を交すことも少くなつた。皆な默つて了つた。
「K君、幽《ふか》い谷だね。」と私は筋違に向ひ合つて居る友達の方を見て言出した。「景色が好いなんていふところを通越して、可畏《おそろ》しいやうな谷だね。」
 K君は點頭《うなづ》いて熱心に眺め入つた。
「まるで冬だ。」とA君も震へながら言つた。「今だから、餘計に深いとこが能く見えるのかも知れませんナ。」
 其時M君は車の上から、谷底を指《ゆびさ》して、落葉した木の名を馬丁に尋ねて見た。
「彼處に見えるのは、山毛欅《ぶな》に、欅《けやき》ださうだ。」とA君はそれを傳へた。
「アヽ、あの黒いのが山毛欅で、白いのが必《きつ》と欅ですぜ。」斯うA君が言つた。
 吾儕は雪舟の畫などを引合に出して、眺めな
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