《い》かうとはしませんでした。そこいらにはもう誰《だれ》も人《ひと》の居《ゐ》ない頃《ころ》で、木戸《きど》に近《ちか》いお稻荷《いなり》さまの小《ちひ》さな社《やしろ》から、お家《うち》の裏手《うらて》にある深《ふか》い竹籔《たけやぶ》の方《はう》へかけて、何《なに》もかも、ひつそりとして居《ゐ》ました。大《おほ》きな蝶々《てふ/\》だけが氣味《きみ》の惡《わる》い黒《くろ》い羽《はね》をひろげて、枳殼《からたち》のまはりを飛《と》んで居《ゐ》ました。それを見《み》ると、父《とう》さんはその蝶々《てふ/\》を殺《ころ》してしまはないうちは安心《あんしん》の出來《でき》ないやうな氣《き》がして、手《て》にした竹竿《たけざを》で、滅茶々々《めちや/\》に枳殼《からたち》の枝《えだ》の方《はう》を打《う》つて置《お》いて、それから木戸《きど》の内《うち》へ逃《に》げ込《こ》みました。
未《いま》だに父《とう》さんはあの時《とき》のことを忘《わす》れません。母屋《もや》の石垣《いしがき》の下《した》にある古《ふる》い池《いけ》の横手《よこて》から、ひつそりとした木小屋《きごや》の前《まへ》を通《とほ》り、井戸《ゐど》の側《わき》の石段《いしだん》を馳《か》け登《のぼ》るやうにしまして、祖母《おばあ》さん達《たち》の居《ゐ》る方《はう》へ急《いそ》いで歸《かへ》つて行《い》つた時《とき》のことを忘《わす》れません。
それにつけても、父《とう》さんはある亞米利加人《あめりかじん》の話《はなし》を思《おも》ひ出《だ》します。
その亞米利加人《あめりかじん》がまだ子供《こども》の時分《じぶん》に龜《かめ》の子《こ》を打《う》つた話《はなし》を思《おも》ひ出《だ》します。生《うま》れて初《はじ》めて『惡《わる》い』といふ事《こと》をほんたうに知《し》つた、自分《じぶん》で惡《わる》いと思《おも》ひながら復《ま》た棒《ぼう》を振上《ふりあ》げ/\して龜《かめ》の子《こ》を打《う》つのに夢中《むちう》になつてしまつた、あんな心持《こゝろもち》は初《はじ》めてだ、さう亞米利加人《あめりかじん》の話《はなし》の中《なか》に書《か》いてあつたことを思《おも》ひ出《だ》します。その亞米利加人《あめりかじん》が母親《はゝおや》から言《い》はれた言葉《ことば》を引《ひ》いて、あれが自分《じぶん》の『良心《りやうしん》の眼《め》ざめ』だ、自分《じぶん》が一|生《しやう》の中《うち》のどんな出來事《できごと》でもあんなに深《ふか》く長續《ながつゞ》きのして殘《のこ》つたものはない、とその話《はなし》にも言《い》つてありましたつけ。 

   三一 梨《なし》の木《き》の下《した》

子供《こども》が片足《かたあし》づゝ揚《あ》げて遊《あそ》ぶことを、東京《とうきやう》では『ちん/\まご/\』と言《い》ひませう。土地《とち》によつては『足拳《あしけん》』と言《い》ふところも有《あ》るさうです。父《とう》さんの田舍《ゐなか》の方《ほう》ではあの遊《あそ》びのことを『ちんぐら、はんぐら』と言《い》ひます。
問屋《とんや》の三|郎《らう》さんは近所《きんじよ》の子供《こども》の中《なか》でも父《とう》さんと同《おな》い年《どし》でして、好《い》い遊《あそ》び友達《ともだち》でした。父《とう》さんがお家《うち》の表《おもて》に出《で》て遊《あそ》んで居《を》りますと、何時《いつ》でも坂《さか》の上《うへ》の方《はう》から降《お》りて來《き》て一|緒《しよ》に成《な》るのは、この三|郎《らう》さんでした。二人《ふたり》は片足《かたあし》づゝ揚《あ》げまして、坂《さか》になつた村《むら》の往来《わうらい》を『ちんぐら、はんぐら』とよく遊《あそ》びました。
ある日《ひ》の夕方《ゆふがた》の事《こと》、父《とう》さんは何《なに》かの事《こと》で三|郎《らう》さんと爭《あらそ》ひまして、この好《よ》い遊《あそ》び友達《ともだち》を泣《な》かせてしまひました。三|郎《らう》さんの祖母《おばあ》さんといふ人《ひと》は日頃《ひごろ》三|郎《らう》さんを可愛《かあい》がつて居《ゐ》ましたから、大層《たいそう》立腹《りつぷく》して、父《とう》さんのお家《うち》へ捩《ね》じ込《こ》んで來《き》たのです。問屋《とんや》の祖母《おばあ》さんと言《い》へば、なか/\負《ま》けては居《ゐ》ない人《ひと》でしたからね。
父《とう》さんはお家《うち》へ歸《かへ》ればきつと叱《しか》られることを知《し》つて居《ゐ》ましたから、しょんぼりと門《もん》の内《なか》まで歸《かへ》つて行《い》きました。お家《うち》には廣《ひろ》い板《いた》の間《ま》の玄關《げんくわん》と、田舍風《ゐなかふう》な臺所《だいどころ》の
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