か》くにありました。小學校《せうがくかう》の生徒《せいと》に狐《きつね》がついたと言《い》つて、一|度《ど》大騷《おほさわ》ぎをしたことがありました。父《とう》さんはその時分《じぶん》はまだ幼少《ちひさ》くてなんにも知《し》りませんでしたが、その狐《きつね》のついたといふ生徒《せいと》は口《くち》から泡《あわ》を出《だ》し、顏色《かほいろ》も蒼《あを》ざめ、ぶる/″\震《ふる》へてしまひました。何度《なんど》も/\も名前《なまへ》を呼《よ》ばれて、漸《やうや》くその生徒《せいと》は正氣《しやうき》に復《かへ》つた事《こと》がありました。桃林和尚《たうりんをしやう》はその話《はなし》も聞《き》いて知《し》つて居《を》りましたから、いづれ狐《きつね》がまた何《なに》か惡戯《いたづら》をするためにお寺《てら》へ訪《たづ》ねて來《き》たに違《ちが》ひないと、直《すぐ》に感《かん》づきました。
『和尚《をしやう》さん、和尚《をしやう》さん、こちらは大層《たいそう》好《よ》いお住居《すまゐ》ですね。この村《むら》に澤山《たくさん》お家《うち》がありましても、こちらにかなふところはありません。村中《むらぢう》第《だい》一の建物《たてもの》です。こんなお住居《すまゐ》に被入《いら》しやる和尚《をしやう》さんは仕合《しあは》せな方《かた》ですね。』
斯《か》う狐《きつね》は言《い》ひました。狐《きつね》は調戯《からか》ふつもりでわざと桃林和尚《たうりんをしやう》の機嫌《きげん》を取《と》るやうにしましたが、賢《かしこ》い和尚《をしやう》さんはなか/\その手《て》に乘《の》りませんでした。
『ハイ、御覽《ごらん》の通《とほ》り、村《むら》では大《おほ》きな建物《たてもの》です。しかしこのお寺《てら》は村中《むらぢう》の人達《ひとたち》の爲《た》めにあるのです。私《わたし》はこゝに御奉公《ごほうこう》して居《ゐ》るのです。お前《まへ》さんは私《わたし》がこの住居《すまゐ》の御主人《ごしゆじん》のやうなことを言《い》ひますが私《わたし》は唯《たゞ》こゝの番人《ばんにん》です。』
斯《か》う桃林和尚《たうりんをしやう》が答《こた》へましたので、狐《きつね》は頭《あたま》を掻《か》き/\裏《うら》の林《はやし》の方《はう》へこそ/\隱《かく》れて行《ゆ》きました。
桃林和尚《たうりんをしやう》が御奉公《ごほうこう》して居《ゐ》た永昌寺《えいしやうじ》は、小高《こだか》い山《やま》の上《うへ》にありました。そのお寺《てら》の高《たか》い屋根《やね》は村中《むらぢう》の家《いへ》の一|番《ばん》高《たか》いところでした。狐《きつね》が來《き》て言《い》つた通《とほ》り、村中《むらぢう》一|番《ばん》の建築物《けんちくぶつ》でもありました。そこで撞《つ》く鐘《かね》の音《おと》は谷《たに》から谷《たに》へ響《ひゞ》けて、何處《どこ》の家《いへ》へも傳《つた》はつて行《ゆ》きました。その鐘《かね》の音《おと》は、年《とし》とつた和尚《をしやう》さんの前《まへ》の代《だい》にも撞《つ》き、そのまた前《まへ》の代《だい》にも撞《つ》いて來《き》たのです。もう何《なん》百|年《ねん》といふことなく、古《ふる》い鐘《かね》の音《おと》が山《やま》の中《なか》で鳴《な》つて居《ゐ》たのです。
永昌寺《えいしやうじ》のある山《やま》の中途《ちうと》には、村中《むらぢう》のお墓《はか》がありました。こんもりと茂《しげ》つた杉《すぎ》の林《はやし》の間《あひだ》からは、石《いし》を載《の》せた村《むら》の板屋根《いたやね》や、柿《かき》の木《き》や、竹籔《たけやぶ》や、窪《くぼ》い谷間《たにま》の畠《はたけ》まで、一|目《め》に見《み》えました。そこには父《とう》さんのお家《いへ》の御先祖《ごせんぞ》さま達《たち》も、紅《あか》い椿《つばき》の花《はな》なぞの咲《さ》くところで靜《しづ》かに眠《ねむ》つて居《を》りました。
一五 お茶《ちや》をつくる家《いへ》
雀《すずめ》が父《とう》さんのお家《うち》へ覗《のぞ》きに來《き》ました。丁度《ちやうど》お家《うち》ではお茶《ちや》をつくる最中《さいちう》でしたから、雀《すずめ》がめづらしさうに覗《のぞ》きに來《き》たのです。
『お前《まへ》さんのお家《うち》ではお茶《ちや》をつくるんですか。』
と雀《すずめ》が言《い》ひますから、
『えゝ、私《わたし》の家《うち》ではお茶《ちや》を買《か》つたことが有《あ》りません。毎年《まいねん》自分《じぶん》の家《うち》でつくります。』
と父《とう》さんが話《はな》してやりました。その時《とき》、父《とう》さんが雀《すずめ》に、あの大《おほ》きなお釜《かま》の方《はう》を御覽《ごらん
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