隣《となり》の八幡屋《やはたや》の方《はう》へ飛《と》んで行《ゆ》くのもあります。ずつと坂《さか》の下《した》の方《はう》の三|浦屋《うらや》という宿屋《やどや》の方《はう》へ飛《と》んで行《ゆ》くのもあります。村《むら》で染物《そめもの》をする峯屋《みねや》へも、俵屋《たはらや》のお婆《ばあ》さんの家《うち》へも、和泉屋《いづみや》の和太郎《わたらう》さんのお家《うち》へも飛《と》んで行《ゆ》きました。父《とう》さんが村役塲《むらやくば》の前《まへ》を通《とほ》りますと、そこへ來《き》て羽《はね》を休《やす》めて居《ゐ》る燕《つばめ》もありました。燕《つばめ》は役塲《やくば》の前《まへ》に建《た》てゝある木《き》の標柱《はしら》を眺《なが》めて、さも/\遠《とほ》い旅行《りよかう》をして來《き》たやうな顏《かほ》をして居《ゐ》ました。
『長野縣《ながのけん》西筑摩郡《にしちくまごほり》木曾神坂村《きそみさかむら》』とその木《き》の標柱《はしら》には書《か》いてあるのです。父《とう》さんは燕《つばめ》の話《はなし》を聞《き》いて見《み》たいと思《おも》ひまして、いろ/\に話《はな》しかけましたが、まるでこの燕《つばめ》は異人《ゐじん》でした。一|向《かう》に言葉《ことば》が通《つう》じませんでした。
『もしもし、燕《つばめ》さん、お前《まへ》さんは一|年《ねん》に一|度《ど》づゝ、この村《むら》へ來《く》るではありませんか。遠《とほ》い國《くに》の方《はう》へ行《い》つて居《ゐ》て、日本《にほん》の言葉《ことば》も忘《わす》れたのですか。』と父《とう》さんが言《い》ひますと、燕《つばめ》は懷《なつ》かしい國《くに》の言葉《ことば》で物《もの》を言《い》ひたくても、それが言《い》へないといふ風《ふう》で、唯《ただ》、ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ、異人《ゐじん》さんのやうな解《わか》らないことを言《い》ひました。
燕《つばめ》は嬉《うれ》しさうに父《とう》さんを見《み》て尻尾《しつぽ》の羽《はね》を左右《さいう》に振《ふり》ながら、遠《とほ》い空《そら》から漸《やうや》くこの山《やま》の中《なか》へ着《つ》いたといふ話《はなし》でもするらしいのでした。それを國《くに》の言葉《ことば》で言《い》へば、『皆《みな》さん、お變《かは》りもありませんか、あなたのお家《うち》の祖父《おぢい》さんもお健者《たつしや》ですか。』と尋《たづ》ねるらしいのでしたが燕《つばめ》の言《い》ふことは早口《はやぐち》で、
『ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ。』
としか父《とう》さんには聞《きこ》えませんでした。
斯《か》うした言葉《ことば》の通《つう》じない燕《つばめ》も、村《むら》に住《す》み慣《な》れて、家々《いへ/\》の軒《のき》に巣《す》をつくり、くちばしの黄色《きいろ》い可愛《かあい》い子供《こども》を育《そだ》てる時分《じぶん》には、大分《だいぶ》言葉《ことば》がわかるやうになりました。燕《つばめ》が父《とう》さんのところへ來《き》て何《なに》を言《い》ふかと思《おも》ひましたら、こんなことを言ひ《い》ました。
『私共《わたしども》は遠《とほ》い國《くに》の方《はう》から參《まゐ》るものですから、なか/\言葉《ことば》が覺《おぼ》えられません、でも、あなたがたが親切《しんせつ》にして下《くだ》さるのを、何《なに》より有難《ありがた》く思《おも》ひます。鶫《つぐみ》といふ鳥《とり》や鶸《ひわ》といふ鳥《とり》は、何《なん》百|羽《ぱ》飛《と》んで參《まゐ》りましても、みんな網《あみ》や黐《もち》に掛《かゝ》つてしまひますが、私共《わたしども》にかぎつて軒先《のきさき》を貸《か》して下《くだ》すつたり巣《す》をかけさせたりして下《くだ》さいます。それが嬉《うれ》しさに、斯《か》うして毎年《まいねん》旅《たび》をして參《まゐ》るのです。』

   一四 永昌寺《えいしやうじ》

『今日《こんにち》は。』
と狐《きつね》が永昌寺《えいしやうじ》の庭《には》へ來《き》て言《い》ひました。永昌寺《えいしやうじ》とは、父《とう》さんの村《むら》のお寺《てら》です。そのお寺《てら》に、桃林和尚《たうりんをしやう》といふ年《とし》とつた和尚《をしやう》さんが住《す》んで居《ゐ》ました。この僧侶《ばうさん》は心《こゝろ》の善《よ》い人《ひと》でした。
『お前《まへ》は何《なに》しに來《き》ました。』
と桃林和尚《たうりんをしやう》が尋《たづ》ねますと、狐《きつね》の言《い》ふことには、
『わたしはお寺《てら》を拜見《はいけん》にあがりました。』
父《とう》さんが初《はじ》めてあがつた小學校《せうがくかう》も、この和尚《をしやう》さんの住《す》むお寺《てら》の近《ち
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