は。』
と言《い》ひますと、お馴染《なじみ》の馬《うま》は鼻《はな》から白《しろ》い氣息《いき》を出《だ》して笑《わら》ひながら
『やあ、今日《こんにち》は、お前《まへ》さんも竹馬《たけうま》ですね。』
と挨拶《あいさつ》しました。美濃《みの》の中津川《なかつがは》といふ町《まち》の方《はう》から、いろ/\な物《もの》を脊中《せなか》につけて來《き》て呉《く》れるのも、あの馬《うま》でした。時《とき》には父《おう》さんの村《むら》なぞに無《な》いめづらしい玩具《おもちや》や、父《とう》さんの好《す》きな箱入《はこいり》の羊羹《やうかん》を隣《となり》の國《くに》の方《はう》から土産《みやげ》につけて來《き》て呉《く》れるのも、あの馬《うま》でした。
『雪《ゆき》が降《ふ》つて樂《たのし》みでせうね。』
と馬《うま》が言《い》ひましたが、雪《ゆき》が降《ふ》れば馬《うま》でも嬉《うれ》しいかと父《とう》さんは思《おも》ひました。山《やま》の中《なか》へ來《く》る冬《ふゆ》やお正月《しやうぐわつ》には、お前達《まへたち》の知《し》らないやうな樂《たのし》さもありますね。氷滑《こほりすべ》りや竹馬《たけうま》で凍《こゞ》へた手《て》をお家《うち》の爐邊《ろばた》の火《ひ》にあぶるのも樂《たのし》みでした。

   一一 庄吉爺《しやうきちぢい》さん

お前達《まへたち》は荒神《くわうじん》さまを知《し》つて居《ゐ》ませう。ほら、臺所《だいどころ》の竈《かまど》の上《うへ》に祭《まつ》る神《かみ》さまのことを荒神《くわうじん》さまと言《い》ひませう。あゝして火《ひ》を鎭《しづ》める神《かみ》さまばかりでなく、父《とう》さんの田舍《ゐなか》では種々《いろ/\》なものを祭《まつ》りました。
繭玉《まゆだま》のかたちを、しんこで造《つく》つてそれを竹《たけ》の枝《えだ》にさげて、お飼蠶《かいこ》さまを守《まも》つて下《くだ》さる神《かみ》さまをも祭《まつ》りました。病氣《びやうき》で倒《たふ》れた馬《うま》のためには、馬頭觀音《ばとうくわんおん》を祭《まつ》りました。歩《ある》いて通《とほ》る旅人《たびびと》の無事《ぶじ》を祈《いの》るためには、道祖神《だうそじん》を祭《まつ》りました。
父《とう》さんは爺《ぢい》やに連《つ》れられて、山《やま》の神《かみ》さまへお餅《もち》をあげに行《い》つた事《こと》を覺《おぼ》えて居《ゐ》ます。湯舟澤《ゆぶねざは》といふ方《はう》へ寄《よ》つた山《やま》のはづれに、山《やま》の神《かみ》さまが祭《まつ》つてありました。その小《ちひ》さな祠《やしろ》の前《まへ》に、米《こめ》の粉《こ》で造《つく》つたお餅《もち》をあげて來《き》ました。その邊《へん》は、どつちを向《む》いても深《ふか》い山《やま》ばかりで、爺《ぢい》やにでも隨《つ》いて行《ゆ》かなければ、とても幼少《ちひさ》な時分《じぶん》の父《とう》さんが獨《ひと》りで行《ゆ》かれるところではありませんでした。
山《やま》や林《はやし》は父《とう》さんの故郷《ふるさと》です。父《とう》さんのやうに大《おほ》きくなつても、忘《わす》れずに居《ゐ》るのは、その故郷《ふるさと》です。父《とう》さんは爺《ぢい》やに連《つ》れられて深《ふか》い林《はやし》の方《はう》へも行《い》つて見《み》ました。そこへ行《ゆ》くと爺《ぢい》やの伐《き》つた木《き》がありました。松葉《まつば》の積《つ》んだのもありました。爺《ぢい》やはその木《き》を背負《しよ》つたり、松葉《まつば》を背負《しよ》つたりして、お家《うち》の木小屋《きごや》の方《はう》へ歸《かへ》つて來《く》るのでした。
この爺《ぢい》やは庄吉《しようきち》といふ名《な》で、父《とう》さんの生《うま》れない前《まへ》からお家《うち》に奉公《ほうこう》して居《ゐ》ました。
『よ、どつこいしよ。』
と爺《ぢい》やは山《やま》からかついで來《き》た木《き》をおろしました。木小屋《きごや》のなかでそれを割《わ》りました。この爺《ぢい》やの大《おほ》きな手《て》は寒《さむ》くなると、皸《あかぎれ》が切《き》れて、まるで膏藥《かうやく》だらけのザラ/\とした手《て》をして居《ゐ》ましたが、でもその心《こゝろ》は正直《しやうぢき》な、そして優《やさ》しい老人《らうじん》でした。
爺《ぢい》やは山《やま》から伐《き》つて來《き》た木《き》を木小屋《きごや》にしまつて置《お》いて、焚《たき》つけにする松葉《まつば》もしまつて置《お》いて、要《い》るだけづゝお家《うち》の爐邊《ろばた》へ運《はこ》びました。赤々《あか/\》とした火《ひ》が毎日《まいにち》爐邊《ろばた》で燃《も》えました。曾祖母《ひいばあ》さん、祖父《おぢい》さん、
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