、発狂した父を見舞いに行ったことがある。父は座敷牢に入っていても、何か書いて見たいと言って、紙と筆を取寄せて、そんなに成っても物を書くことを忘れなかった。「おげん、ここへ来さっせれ、一寸《ちょっと》ここへ来さっせれ」と父がしきりに手招きするから、何か書いたものでも見せるのかと思って、行くと、父は恐ろしい力でおげんを捉《つかま》えようとして、もうすこしでおげんの手が引きちぎられるところであった。父は髭《ひげ》の延びた蒼《あお》ざめた顔付で、時には「あはは、あはは」笑って、もうさんざん腹を抱えて反《そ》りかえるようにして、笑って笑い抜いたかと思うと、今度は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。
「お父さま――お前さまの心持は、この俺にはよく解るぞなし。俺もお前さまの娘だ。お前さまに幼少《ちいさ》な時分から教えられたことを忘れないばかりに――俺もこんなところへ来た」
 おげんはそこに父でも居るようにして、独りでかき口説《くど》いた。狂死した父をあわれむ心は、眼前《めのまえ》に見るものを余計に恐ろしくした。彼女は自分で行きたくない行きたくないと思うところへ我知らず引き込まれて行
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