ちいさな声で、
「あの奥様の連れている犬が、わたしは恐くて、恐くて」
 と言って見せた。看護婦は不思議そうにおげんの顔を眺めて、
「そんな犬なんか何処にも居ませんよ」
 こう言って部屋を出て行った。
 その時の看護婦の残して行った言葉には、思い疲れたおげんの心をびっくりさせるほどの力があった。
「俺もどうかしているわい」
 思わずおげんはそこへ気がついた。しかし、あんなことを言って見せて悪戯好《いたずらず》きな若い看護婦が患者相手の徒然《つれづれ》を慰めようとするのだ、とおげんは思い直した。あの犬は誰の部屋へでも構わず入り込んで来るような奴だ。小さな犬のくせに、どうしてそんな人間の淫蕩《いんとう》の秘密を覚えたかと思われるような奴だ。亡くなった旦那が家出の当時にすら、指一本、人にさされたことのないほど長い苦節を守り続けて来た女の徳までも平気で破りに来ようという奴だ。そう考えると、おげんはこの養生園に居ることが遽《にわか》に恐ろしくなった。夕方にでもなって、他の患者が長い廊下をあちこちと歩いている時に、養生園の庭の見える硝子障子のところへ立って見ると、「そんな犬なんか居ませんよ」と言った
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