上に並んだ人達からこちらを呼ぶ声が起った。家の裏口に出てカルサン穿《ば》きで挨拶する養子、帽子を振る三吉、番頭、小僧の店のものから女衆まで、殆《ほと》んど一目におげんの立つ窓から見えた。
「おばあさん――おばあさん」
 と三吉が振って見せる帽子も見えなくなる頃は、小山の家の奥座敷の板屋根も、今の養子の苦心に成った土蔵の白壁も、瞬《またた》く間におげんの眼から消えた。汽車は黒い煙をところどころに残し、旧《ふる》い駅路の破壊し尽くされた跡のような鉄道の線路に添うて、その町はずれをも離れた。
 おげんはがっかりと窓際《まどぎわ》に腰掛けた。彼女は六十の歳になって浮浪を始めたような自己《おのれ》の姿を胸に描かずにはいられなかった。しかし自分の長い結婚生活が結局女の破産に終ったとは考えたくなかった。小山から縁談があって嫁《とつ》いで来た若い娘の日から、すくなくとも彼女の力に出来るだけのことは為《し》たと信じていたからで。彼女は旦那の忘れ形見ともいうべきお新と共に、どうかしてもっと生甲斐《いきがい》のあることを探したいと心に思っていた。そんなことを遠い夢のように考えて、諏訪湖《すわこ》の先まで乗っ
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