部屋もさびしかった。しかしおげんは久しぶりで東京の方に居る弟の熊吉に宛《あ》てた葉書を書く気になったほど、心持の好い日を迎えた。おげんは女らしい字を書いたが、とかく手が震えて、これまでめったに筆も持たなかった。書いて見れば、書けて、その弟にやる葉書を自分で眺《なが》めても、すこしも手の震えたような跡のないことは彼女の心にもうれしかった。九月を迎えるように成ってからは、一層心持の好い日が続いた。おげんは娘や婆やを相手にめずらしく楽しい時を送ったばかりでなく、時にはこの村にある旧《ふる》い親戚の家なぞを訪ねて歩いた。どうやら一生の晩年の静かさがおげんの眼にも見えて来た。彼女はその静かさを山家へ早くやって来るような朝晩の冷《すず》しい雨にも、露を帯びた桑畠《くわばたけ》にも、医院の庭の日あたりにも見つけることが出来るように思って来た。
「婆や、ちょっと一円貸しとくれや」
とある日、おげんは婆やに言った。付添として来た婆やは会計を預っていたので、おげんが毎日いくらかずつの小遣《こづか》いを婆やにねだりねだりした。
「一円でいい」
とまたおげんが手を出して言った。
婆やは小山の家に出入の者
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