来た。」
とおげんは独《ひと》りでそれを言って見た。そこは地方によくあるような医院の一室で、遠い村々から来る患者を容《い》れるための部屋になっていた。蜂谷という評判の好い田舎《いなか》医者がそこを経営していた。おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があったからで。
「前の日に思い立って、翌《あく》る日は家を出て来るような、そんな旦那衆のようなわけにいかすか」
「そうとも」
「そこは女だもの。俺《おれ》は半年も前から思い立って、漸くここまで来た」
これは二人の人の会話のようであるが、おげんは一人でそれをやった。彼女の内部《なか》にはこんな独言《ひとりごと》を言う二人の人が居た。
おげんはもう年をとって、心細かった。彼女は嫁《とつ》いで行った小山の家の祖母《おばあ》さんの死を見送り、旦那と自分の間に出来た小山の相続人《あととり》でお新から言えば唯一人の兄にあたる実子の死を見送り、二年前には旦那
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