乗って、やがて俥はある坂道の下にかかった。知らない町の燈火は夜見世でもあるように幌の外にかがやいた。俥に近く通り過ぎる人の影もあった。おげんは何がなしに愉快な、酔うような心持になって来た。弟も弟の子供達も自分を待ちうけていてくれるように思われて来た。昂奮のあまり、おげんは俥の上で楽しく首を振って、何か謡曲の一ふしも歌って見る気に成った。こういう時にきまりで胸に浮んで来る文句があったから、彼女はそれを吟じ続けて、好い機嫌で坂を揺られて行った。しまいには自分で自分の声に聞き惚れて、町の中を吟じて通ることも忘れるほど夢中になった。
漸《ようや》く俥はある町へ行って停った。
「御隠居さん、今日はお目出度うございます」
と祝ってくれる車夫の声を聞いて、おげんは俥から降りた。
その時はおげんもさんざん乗って行った俥に草臥《くたび》れていた。早く弟の家に着いて休みたいと思う心のみが先に立った。玄関には弟の家で見かけない婆やが出迎えて、
「さあ、お茶のお支度も出来ておりますよ」
と慣れ慣れしく声を掛けてくれた。
おげんはその婆やの案内で廊下を通った。弟の見つけた家にしては広過ぎるほどの部屋々々の間を歩いて行くと、またその先に別の長い廊下が続いていた。ずんずん歩いて行けば行くほど、何となく見覚えのある家の内だ。その廊下を曲ろうとする角のところに、大きな鋸《のこぎり》だの、厳《いか》めしい鉄の槌《つち》だの、その他、一度見たものには忘れられないような赤く錆《さ》びた刃物の類が飾ってある壁の側あたりまで行って、おげんはハッとした。
弟の家の婆やとばかり思っていた婦人の顔は、よく見ればずっと以前に根岸の精神病院で世話になったことのある年とった看護婦の顔であった。一緒に俥で来たと思ったお玉も何処へか消えた。
「何だか狐にでもつままれたような気がする」
とおげんは歩きながら独《ひと》りでそう言って見た。
「小山さん、しばらく」
と言っておげんの側へ飛んで来たのは、まがいのない白い制服を着けた中年の看護婦であった。そこまで案内した年とった婦人は、その看護婦におげんを引渡して置いて、玄関の方へ引返して行った。そこの廊下でおげんが見つけるものは、壁でも、柱でも、桟橋でも、皆覚えのあるものばかりであった。
「ここは何処だらず。一体、俺は何処へ来ているのだずら」
「小山さんも覚えが悪い。ここは根岸の病院じゃありませんか。あなたが一度いらしったところじゃ有りませんか」
おげんは中年の看護婦と言葉をかわして見て、電気にでも打たれるような身ぶるいが全身を通り過ぎるのを覚えた。
翌朝になると、おげんは多勢の女の患者ばかりごちゃごちゃと集まって臥《ね》たり起きたりする病院の大広間に来ていた。夢であってくれればいいと思われるような、異様な感じを誘う年とった婦人や若い婦人がそこにもここにもごろごろして思い思いの世界をつくっていた。その時になって見て、おげんはあの小石川の養生園から誘い出されたことも、自分をここの玄関先まで案内して来た姪のお玉が何時の間にか姿を隠したことも、一層はっきりとその意味を読んだ。
「しまった」
とおげんは心に叫んだが、この時は最早追付かなかった。
見ず知らずの人達と一緒ではあるが患者同志が集団として暮して行くこと、旧《ふる》い馴染《なじみ》の看護婦が二人までもまだ勤めていること、それに一度入院して全快した経験のあること――それらが一緒になって、おげんはこの病院に移った翌日から何となく別な心地《こころもち》を起した。勝手を知ったおげんは馴染も薄い患者ばかり居る大広間から抜け出して、ある特別な精神病者を一人置くような室の横手から、病院の広い庭の見える窓の方へ歩いて行って見た。立派な丸髷《まるまげ》に結った何処かの細君らしい婦人で、新入の患者仲間を迎え顔におげんの方へ来て、何か思いついたように恐ろしく丁寧なお辞儀をして行くのもあった。
寒い静かな光線はおげんの行く廊下のところへ射して来ていて、何となく気分を落着かせた。その突当りには、養生園の部屋の方で見つけたよりもっと深い窓があった。
「俺はこんなところへ来るような病人とは違うぞい。どうして俺をこんなところへ入れたか」
「さあ、俺にも分らん」
おげんの中に居る二人の人は窓の側でこんな話を始めた。
「熊吉はどうした」
「熊吉も、どうぞお願いだから、俺に入っていてくれと言うげな」
「小山の養子はどうした」
「養子か。あれも、俺に出て来て貰っては困ると言うぞい」
「直次はどうした」
「あれもそうだ」
「お玉はどうした」
「あれは俺を欺して連れて来て置いて」
「みんなで寄ってたかって俺を狂人《きちがい》にして、こんなところへ入れてしまった。盲目《めくら》の量見ほど悲しいものはないぞや」
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