う。すっかり身体を丈夫にして下さい。家を借りる相談なぞは、その上でも遅かありません」
「いや、どうしても俺は病院へ行くことは厭《いや》だ」
 こう言っておげんは聞入れなかった。
「ああああ、そんなつもりでわざわざ国から出て来《こ》すか」
 とまた附けたした。
 しかし、熊吉は姉の養生園行を見合せないのみか、その翌日の午後には自分でも先《ま》ず姉を見送る支度《したく》をして、それからおげんのところへ来た。熊吉は姉の前に手をついて御辞儀した。それほどにして勧めた。おげんはもう嘆息してしまって、肉親の弟が入れというものなら、それではどうも仕方がないと思った。おげんはそこに御辞儀した弟の頭を一つぴしゃんと擲《なぐ》って置いて、弟の言うことに従った。
 その足でおげんは小間物屋の二階を降りた。入院の支度するために直次の家へと戻った。彼女はトボケでもしないかぎり、どの面《つら》をさげて、そんな養生園へ行かれようと考えた。丁度、国から持って来た着物の中には、胴だけ剥《は》いで、別の切地《きれ》をあてがった下着があった。丹精して造ったもので、縞柄《しまがら》もおとなしく気に入っていた。彼女はその下着をわざと風変りに着て、その上に帯を締めた。
 直次の娘から羽織も掛けて貰《もら》って、ぶらりと二番目の弟の家を出たが、とかく、足は前へ進まなかった。
 小間物屋のある町角で、熊吉は姉を待合せていた。そこには腰の低い小間物屋のおかみさんも店の外まで出て、おげんの近づくのを待っていて、
「御隠居さま、どうかまあ御機嫌《ごきげん》よう」
 と手を揉《も》み揉み挨拶した。
 熊吉は往来で姉の風体《ふうてい》を眺めて、子供のように噴飯《ふきだ》したいような顔付を見せたが、やがて連立って出掛けた。町で行逢う人達はおげんの方を振返り振返りしては、いずれも首を傾《かし》げて行った。それを知る度におげんはある哀《かな》しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱《ゆううつ》な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊んでいた小さな甥達の中にはそこいらまで一緒に随《つ》いて来るのもあった。おげんは熊吉の案内で坂の下にある電車の乗場から新橋手前まで乗った。そこには直次が姉を待合せていた。直次は熊吉に代って、それから先は二番目の弟が案内した。
 小石川の高台にあ
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