部屋もさびしかった。しかしおげんは久しぶりで東京の方に居る弟の熊吉に宛《あ》てた葉書を書く気になったほど、心持の好い日を迎えた。おげんは女らしい字を書いたが、とかく手が震えて、これまでめったに筆も持たなかった。書いて見れば、書けて、その弟にやる葉書を自分で眺《なが》めても、すこしも手の震えたような跡のないことは彼女の心にもうれしかった。九月を迎えるように成ってからは、一層心持の好い日が続いた。おげんは娘や婆やを相手にめずらしく楽しい時を送ったばかりでなく、時にはこの村にある旧《ふる》い親戚の家なぞを訪ねて歩いた。どうやら一生の晩年の静かさがおげんの眼にも見えて来た。彼女はその静かさを山家へ早くやって来るような朝晩の冷《すず》しい雨にも、露を帯びた桑畠《くわばたけ》にも、医院の庭の日あたりにも見つけることが出来るように思って来た。
「婆や、ちょっと一円貸しとくれや」
 とある日、おげんは婆やに言った。付添として来た婆やは会計を預っていたので、おげんが毎日いくらかずつの小遣《こづか》いを婆やにねだりねだりした。
「一円でいい」
 とまたおげんが手を出して言った。
 婆やは小山の家に出入の者でひどくおげんの気に入っていたが、金銭上のことになるとそうそうおげんの言うなりにも成っていなかった。
「そう御新造さまのようにお小遣いを使わっせると、わたしがお家《うち》の方へ申し訳がないで」
 と婆やはきまりのようにそれを言って、渋々おげんの請求に応じた。
 こうした場合ほどおげんに取って、自分の弱点に触られるような気のすることはなかった。その度におげんは婆やが毎日まめまめとよく働いてくれることも忘れて、腹立たしい調子になった。彼女はこの医院に来てから最早何程の小遣いを使ったとも、自分でそれを一寸《ちょっと》言って見ることも出来なかった。
「お前達は、何でも俺が無暗《むやみ》とお金を使いからかすようなことを言う――」
 こうおげんは荒々しく言った。
 お新と共に最後の「隠れ家」を求めようとするおげんの心は、ますます深いものと成って行った。彼女は自分でも金銭の勘定に拙《つたな》いことや、それがまた自分の弱点だということを思わないではなかったが、しかしそれをいかんともすることが出来なかった。唯、心細くばかりあった。いつまでも処女で年ばかり取って行くようなお新の前途が案じられてならなかった
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