って見せずか。どうしておばあさんだって、三吉には負けんぞい」
子供を前に置いて、おげんは蛙の鳴声なぞを真似して見せて戯れるうちに、何時《いつ》の間にか彼女の心は本物の蛙の声の方へ行った。何処かの田圃《たんぼ》の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草木の感じまでが憂鬱《ゆううつ》で悩ましかった。
「何だか俺はほんとに狂《きちがい》にでも成りそうだ」
とおげんは半分|串談《じょうだん》のように独《ひと》りでそんなことを言って見た。耳に聞く蛙の声はややもすると彼女の父親の方へ――あの父親が晩年の月日を送った暗い座敷牢の格子の方へ彼女の心を誘った。おげんは姉弟《きょうだい》中で一番父親に似ているとも言われた。そんなことまでが平素から気になっていた。どうして四十になっても独り立ちの出来ないような不幸な娘を連れていて――それを思うと、おげんは自分を笑いたかった。彼女はそこに置いてある火鉢から細い真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》を取って見て、曲げるつもりもなくそれを弓なりに折り曲げた。
「おばあさん――またここのお医者様に怒られるぞい」
と三吉は言って、不思議そうにおげんの顔を見ていたが、やがて子供らしく笑い出した。こういう場合に側に居るものの顔を見比べて、母を庇護《かば》おうとするのは何時でもお新だった。
「三ちゃんにはかなわない。直ぐにああいうところへ眼をつけるで」
とお新も笑いながら言って、母の曲げた火箸を元のように直そうとした。お新はそんなことをするにも、丁寧に、丁寧にとやった。
蜂谷の医院へ来てから三週間ばかり経《た》つうちに、三吉は小山の家の方へ帰りたいと言出した。おげんは一日でも多く小さな甥《おい》を自分の手許《てもと》に引留めて、「おばあさんの側が好い」と言って貰いたかったが、退屈した子供をどうすることも出来なかった。三吉は独りでも家の方へ帰れると言って、次の駅まで二里ばかりは汽車にも乗らずに歩いて行こうとした。この田舎育ちの子供が独りでぽつぽつ帰って行く日にはおげんはお新と二人で村はずれまで見送った。学校の生徒らしい夏帽子に土地風なカルサン穿《ば》きで、時々|後方《うしろ》を振返り振返り県道に添うて歩いて行く小さな甥の後姿は、おげんの眼に残った。
三吉が帰って行った後、にわかに医院の
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