にせん吾人は真正の意味に於て、日本の詩人(過去の、即ち仏教的日本の)としては先づ指を彼等に屈する者なり。左《さ》りとて吾人もいつまでか、西行芭蕉の名を繰返してあらんや、追々に文学史上にて白石山陽等の諸氏の文学上の価値を論ずる心得なれば、此事に就きては御安心あらんことを請ふになむ。但し吾人は、白石にせよ、山陽にせよ、其の文学上の価値を論ずる訳にして、決して其事業を論ずるものにあらざるなり、事業は事業として、その人物論に於て之を論ずるを可とす、その文学を論ずるには、所詮《しよせん》事業は後に置かざるべからず、若《も》し文学を事業といふ標率の上より論ずれば、政治上の論文を書く小新聞の雇記者は、大概の詩人小説家より上に置かざるべからず、愛山君とて正可《まさか》に斯《かゝ》る御考にはあらざるべし、余とて正可に山陽が一代の文豪なりしを知らざる訳にもあらざるなり。更に一歩を転じて之を考ふるに、事業を以て文学を論ずるの標率となすに於ては、近頃民友社と自由党の争などは如何に判決して宜《よろし》かるべきや。星氏は事業家としては堂々たる議長なり、而して民友社は彼を呼んで眇々《べう/\》たる一代言といへり。民友社は文章を以て出来たる社なり、若し事業を以て云ふ時は、無論星氏に降参せざるを得ざるにあらずや。星氏より見れば民友子は一個の白面書生なり、即ち事業を以て民友子を視《み》るの標率とするが故なり。民友子は明治の文豪なり、然れども事業を重んずるの眼より見れば、矢張白面の一書生たるにあらずや。之を以て見ても、文学を論ずるに事業を標率とするの非なるは解かるべきに、余が「事業といへる俗界の神」と言ひたる言葉の意味は、星氏を呼びて「眇々たる一代言」と言ひたる記者こそ、能《よ》く御存知なるべけれ。
 ヱモルソンの謂《い》ふ所の Doing(彼は Knower, Doer, Sayer の区別をなせり)の如くならば、吾人は少しも異存なきなり。但し Doing といふ字と事業といふ字とは多少其意義を異にせずや。愛山君に御伺ひ申したし。兎に角、吾人に対して「事業を賤しむ」といふ御冷評は願下《ねがひさげ》にしたく候。
[#地から2字上げ](明治二十六年五月)



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11
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