なる社界学上の事実なり、或は鳥吟を摸擬し、或は美花を粗末なる仕方にて摸写するなどの事は、極めて劣拙の人種にも是あるなり。又た、尤も幼稚なる嬰児にても、美くしき玩弄品《トイス》を見ては能《よ》く笑ひ、音楽の響には耳を澄ます事は、普通なる事実なり。之を以て見れば文明といふ怪物が、人間を遊惰放逸に駆りたるよりして、始めて美の要を生じたりと見るの僻見なることは、多言せずして明らかなるべし。美は実に人生の本能に於て、本性に於て、自然に願欲するものなることは認め得べきことなり。斯の如く美を願欲するには、人生の本能、人性の本性に於て、然り、といふ事を知り得たらば、吾人は、一歩を進めて、
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人生は快楽を要するものなりや否や
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の一問を解かざるべからず。
快楽は何の為に、人生に要ある。人生は快楽なくして、生活し得べきものなるべきや。ピユリタニズムの極端にまで攀《よ》ぢ登りて見ても、唯利論の絶頂にまで登臨して見ても、人生は何事か快楽といふものなくては月日を送ること能はざるは、常識といふ活眼先生に問ふまでもなく、明白なる事実なり。
快楽は即ち慰藉《ゐしや》(Consolation)なり。詳《つまびらか》に人間生活の状態を観よ、蠢々《しゆん/\》※[#「口+禺」、第3水準1−15−9]々《ぎよう/\》として、何のおもしろみもなく、何のをかしみもなきに似たれど、其実は、個々特種の快楽を有し、人々異様の慰藉を領するなり。放蕩なる快楽は飲宴好色なり、着実なる快楽は晏居《あんきよ》閑楽なり、熱性ある快楽は忠孝仁義等の目的及び希望なり、誠実なる快楽は家を斉《とゝの》へ生を理するにあり。然れども是等は、特性の快楽を挙げたるのみ、若し通性の快楽をいふ時は、美くしきものによりて、耳目[#「耳目」に傍点](Sight and hearing)を楽しますことにあり。耳には音を聞き、目には物を睹《み》る、之《こ》れ快楽を願欲するの最始なり。然れどもマインド(智、情、意)の発達するに従ひて、この簡単なる快楽にては満足すること能はざるが故に、更に道義《モーラル》の生命《ライフ》に於て、快楽を願欲するに至るなり。道義の生命に於て快楽を願欲するに至る時は、単に|自然の摸倣《ネーチユーア・イミテーシヨン》を事とする美術を以て真正の満足を得ること能はざるは必然の結果なるが故に、創造的天才《クリヱチーフ・ジニアス》の手に成りたる美を愛好するに至ることも、亦《ま》た当然の成行なり。美は始めより同じものにして、軽重増減あるものにあらざれど、美術の上に於ては、進歩すべきものなること是を以てなり。而して此観察点より推究する時は、尤も進歩したるモーラル・ライフ(道義の生命)を有つものは、尤も健全にして、尤も円満なる美を願欲するものなることは、判断するに難からじ。而して、社界進歩の大法を以て之を論ずる時は、尤も完全なる道義の生命を有する国民が尤も進歩したる有様にある事は、明白なる事実なれば、従つて又た、尤も円満なる快楽を有し、尤も完全なる美を願欲する人種が尤も進歩したる国家を成すことは、容易に見得べき事なり。吾人は更に、
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道義的生命([#ここから割り注]ライフという字は人生と訳するも可なり[#ここで割り注終わり])が快楽に相渉る関係
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に就きて一言せざる可からず。
道義《モーラル》といふ字を用ふるには、宗教及哲学に訴へて、其字義を釈説すること大切なるべし、然れども吾人は序言に於て断りしたる如く、成《な》る可《べ》く平民的に([#ここから割り注]平民的という言、爰に用ふるを得るとすれば[#ここで割り注終わり])、雑誌評論らしき、普通の諒解にうちまかせて、この字を用ふるなり。
人生は、フ※[#小書き片仮名ヒ、1−6−84]ジカルに於て進歩すると同時に、モーラルにも進歩するものなり、Phisical world の拡まり行くと共に Moral world も拡まり行くものなり。故に其必要とする快楽に於ても亦た、単に耳目を嬉《よろこ》ばすといふのみにては足らぬ様になるなり。加ふるに智情意の発達と共に、各種各様の思想を生ずるが故に、其の必要とする快楽も彼等の発達したる智情意を満足せしむる程の者たらざるべからず。かるが故に、道義的人生に相渉るべき適当の快楽なくしては、道義自身も槁《か》れ、人生自身も味なきに至らん事必せり。爰《こゝ》に於て、道義の生命の中心なる霊魂を以て、美の表現の中心なる宇宙の真美を味ふの必要起るなり。宇宙の真美は、或はサブライムといひ、或はビユーチフルと言ひ、審美学家の孜々《しゝ》として討究しつゝある問題にして、容易に論入すべきものにあらず。但し、余は、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と題する
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