潮流が逆巻き上りて、一は東より、一は西より、必らず或処にて衝当るべき方向を指して進行しつゝあるを見るなり。
 吾人をして、此相敵視せる二大潮流を観察せしめよ。
 極めて解り易き名称にて之を言へば、其一は東洋思想なり、其二は西洋思想なり、然れども此二思想の内部精神を討《たづ》ぬれば、其一は公共的の自由を経験と学理とによりて確認し、且握取せる共和思想なり、而して其二は、長上者の個人的の自由のみを承認して、国家公共の独立自由を知らず、経験上にも学理上にも国家には中心となりて立つべきものあるを識れども、各個人の自己に各自の中心あることを認めざる族長制度的思想なり。
 明治の革命は既に貴族と平民との堅壁を打破したり、政治上既に斯の如くなれば、国民内部の生命なる「思想」も亦た、迅速に政治革命の跡を追躡《つゐでふ》したり、此時に当つて横合より国民の思想を刺撃し、頭を挙げて前面を眺めしめたるものこそあれ、そを何ぞと云ふに、西洋思想に伴ひて来れる(寧ろ西洋思想を抱きて来れる)物質的文明、之なり。
 福沢諭吉氏が「西洋事情」は、寒村|僻地《へきち》まで行き渡りたりと聞けり。然れども泰西の文物を説教するものは、泰西の機械用具の声にてありき、一般の驚異は自《おのづ》からに崇敬の念を起さしめたり、文武の官省は洋人を聘《へい》して改革の道を講じたり、留学生の多数は重く用ひられて一国の要路に登ることゝなれり、而して政府は積年閉鎖の夢を破りて、外交の事漸く緒《しよ》に就くに至れり、各国の商賈《しやうこ》は各開港塲に来りて珍奇実用の器物をひさげり、チヨンマゲは頑固といふ新熟語の愚弄《ぐろう》するところとなれり、洋服は名誉ある官人の着用するところとなれり。天下を挙《あげ》て物質的文明の輸入に狂奔せしめ、すべての主観的思想は、旧きは混沌の中に長夜の眠を貪《むさぼ》り、新らしきは春草未だ萌え出《いづ》るに及ばずして、モーゼなきイスラヱル人は荒原の中にさすらひて、静に運命の一転するを俟《ま》てり。
 斯の如き、変遷《トランジシヨン》の時代にありては、国民の多数はすべての預言者に聴かざるなり、而して思想の世界に於ける大小の預言者も亦た、国民を動かすに足るべき主義の上に立つこと能はざるなり。之を以て思想界に、若し勢力の尤も大なるものあらば、其は国民に向つて極めて平易なる教理を説く預言者なるべし。再言すれば敢て国民を率ゐて或処にまで達せんとする的《てき》の預言者は、斯かる時代に希ふ可からず。巧に国民の趨向《すうかう》に投じ、詳《つまびら》かに其の傾くところに従ひ、或意味より言はゞ国民の機嫌を取ることを主眼とする的《てき》の思想家より多くを得る能はず。爰に於て吾人は小説戯文界に於て、仮名垣魯文翁の姓名を没する能はず。更に高品なる戯文家としては成島柳北翁を推さゞるべからず。蓋《けだ》し魯文翁の如きは徳川時代の戯作者《げさくしや》の後を襲ぎて、而して此の混沌時代にありて放縦を極めたるものゝみ。柳北翁に至つては純乎たる混沌時代の産物にして、天下の道義を嘲弄し、世道人心を抛擲《はうてき》して、うろたへたる風流に身をもちくづしたるものなり。吾人は敢て魯文柳北二翁を詰責するものにあらず、唯だ斯かる混沌時代にありて、指揮者をもたざる国民の思想に投合すべきものは、悲しくも斯《かゝ》る種類の文学なることを明言するのみ。
 眼を一方に転ずれば、彼《かの》三田翁が着々として思想界に於ける領地を拡げ行くを見るなり。文人としての彼は孳々《じゝ》として物質的知識の進達を助けたり、彼は泰西の文物に心酔したるものにはあらずとするも、泰西の外観的文明を確かに伝道すべきものと信じたりしと覚ゆ。教師としての彼は実用経済の道を開きて、人材の泉源を造り、社会各般の機務に応ずべき用意を厳にせり。故に泰西文明の思想界に於ける密雲は一たび彼の上に簇《あつ》まりて、而して後八方に散じたり。彼は実に平民に対する預言者の張本人なり。前号にも言ひし如く、維新の革命は前古未曾有の革命にして、精神の自由を公共的に振分けんとする革命にてあれば、此際に於て尤も多く時代に需《もと》めらるべきは、此目的に適ひたるものなるが故に、其第一着として三田翁は皇天の召に応じたるものなり。然れども吾人を以て福沢翁を崇拝するものと誤解すること勿れ、吾人は公平に歴史を研究せんとするものなり、感情は吾人の此塲合に於て友とするものにあらず、吾人は福沢翁を以て、明治に於て始めて平民間に伝道したる預言者なりと認む、彼を以て完全なる預言者なりと言ふにはあらず。
 福沢翁には吾人、「純然たる時代の驕児《けうじ》」なる名称を呈するを憚《はゞか》らず。彼は旧世界に生れながら、徹頭徹尾、旧世界を抛《な》げたる人なり。彼は新世界に於て拡大なる領地を有すると雖、その指の一本すらも
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